お疲れ様です!オレンチです!
今回は『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』です。
クエンティン・タランティーノ監督といえば、映画好きなら知らない人はいないほどの有名監督。
そんなタランティーノの9作目にあたる作品です。
オレンチ
毎回新たなタランティーノ監督作が発表されるとそれだけでお祭り騒ぎになるよね!
それでは『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』について、行ってみましょー!
作品情報
- 原題:Once Upon a Time in Hollywood
- 制作:2019年/アメリカ
- 上映時間:161分
- レーティング:PG12
あらすじ/予告編
テレビ俳優として人気のピークを過ぎ、映画スターへの転身を目指すリック・ダルトンと、リックを支える付き人でスタントマンのクリス・ブース。目まぐるしく変化するエンタテインメント業界で生き抜くことに神経をすり減らすリックと、対照的にいつも自分らしさを失わないクリフだったが、2人は固い友情で結ばれていた。そんなある日、リックの暮らす家の隣に、時代の寵児ロマン・ポランスキー監督と、その妻で新進女優のシャロン・テートが引っ越してくる。今まさに光り輝いているポランスキー夫妻を目の当たりにしたリックは、自分も俳優として再び輝くため、イタリアでマカロニ・ウエスタン映画に出演することを決意する。やがて1969年8月9日、彼らの人生を巻き込み映画史を塗り替える事件が発生する。(映画.comより)
監督・スタッフ
- 監督:クエンティン・タランティーノ
- 脚本:クエンティン・タランティーノ
- 制作:デビッド・ハイマン
- 撮影:ロバート・リチャードソン
- 編集:フレッド・ラスキン
クエンティン・タランティーノ監督の9作目。
「ネームバリューの割にまだ9本目なんだ。」と思ったりもしましたが、ジェームズ・キャメロンも12作だし、スタンリー・キューブリックは生涯で16作ほどなんですね。多分、同じくらいネームバリューが強いスティーブン・スピルバーグの監督ペースがモンスターのごとく早すぎるんでしょう。
ちなみにタランティーノは9作目で引退するかも。とほのめかしたりしてます。
オレンチ
『ペンタゴンペーパーズ最高機密文書』を監督した直後に『レディ・プレイヤー1』を監督するというモンスターっぷり!
撮影のロバート・リチャードソンは『キル・ビル』から。編集のフレッド・ラスキンは『ジャンゴ 繋がれざる者』から変わらぬスタッフィング。
タランティーノは映像でストーリーを語る映像言語に重きを置く監督なので、撮影と編集には常に信頼できるスタッフを配置したいのでしょう。
もし、存命ならば編集は『レザボア・ドッグス』から組んでいた名編集者サリー・メンケがスタッフィングされるところでしょうが、サリー・メンケは残念あがら2010年に急死してしまっています。
キャスト
- リック・ダルトン:レオナルド・ディカプリオ
- クリフ・ブース:ブラッド・ピット
- シャロン・テート:マーゴット・ロビー
- ロマン・ポランスキー:ラファル・ザビエルチャ
- マーヴィン・シュワルツ:アル・パチーノ
- リネット・フロム:ダコタ・ファニング
- スティーブ・マックイーン:ダミアン・ルイス
- ブルース・リー:マイク・モー
- チャールズ・マンソン:デイモン・ヘリマン
レオナルド・ディカプリオは『レヴェナント:蘇えりし者』以来4年振りにスクリーンに帰ってきました。タランティーノと組むのは『ジャンゴ 繋がれざる者』以来、7年ぶりとなります。
ブラッド・ピットは87年以降、毎年休むことなく映画に出演し続けている超人です。
オレンチ
2018年は『デッドプール2』のカメオ出演なのでカウントしていいのか怪しいですが!
タランティーノとは『イングロリアス・バスターズ』以来で実に10年ぶり。さらに今年はもう一本、『アド・アストラ』が控えていますね。
また『ウルフオブウォールストリート』以降、ぐんぐん実力を伸ばしているマーゴット・ロビーがタランティーノ作品初出演です。
日本でも『スーサイド・スクワッド』のハーレイ・クイン役で一躍大ブームとなりましたね。ハーレイ・クインの印象で、メソッド俳優に思われがちですが、本人曰く自分はメソッド俳優じゃないんだそうです。
大御所からはアル・パチーノが参戦。意外や意外。アル・パチーノはタランティーノ作品初出演なんですね!
感想・解説
映画という名の剣で正義の一撃!
まず初めに本作を正しく鑑賞するにはある事件を知っていなければならないでしょう。
その事件とはシャロン・テート殺人事件です。
[box04 title=”シャロン・テート殺人事件とは”]1969年8月9日。女優シャロン・テートがロサンゼルスの自宅でカルト集団マンソン・ファミリーに殺害された事件。
事件当日、シャロンと友人がホームパーティー中のところマンソン・ファミリーが押し入り全員を殺害。当時シャロンは映画監督で夫のロマン・ポランスキーの子を妊娠していた。
主犯はマンソン・ファミリーのリーダー、チャールズ・マンソン。
当時チャールズ・マンソンは音楽デビューを夢見ていたが、芽が出る事はなくプロデューサーを逆恨みし、殺害する為に自宅に押し入る計画を立てるも件のプロデューサーは既に引っ越していた。
その家に運悪く引っ越してきてしまったのがシャロン・テートだった。
最悪なことに、チャールズ・マンソンは既に音楽プロデューサーが引っ越している事を知っての犯行だった。
というように、兎にも角にも最悪で凶悪で残忍な事件です。
オレンチ
ちなみにマリリン・マンソンという芸名はマリリン・モンローとチャールズ・マンソンからとっています。
本作はリック&クリフが時代の過渡期に翻弄される裏側で、ハリウッド史上最悪の凶悪な事件が見え隠れしていたんです。
ポランスキー邸にチャールズ・マンソンが現れたり、クリフ・ブースはマンソン・ファミリーのアジトに赴いたりしてましたね。
ここで一つ疑問が生じます。
歴史とちがくね?
そうなんです。違うんです。
おそらくタランティーノ作品を全て見てきている映画好きなあなたならこうも感じたことでしょう。
『イングロリアス・バスターズ』と『ジャンゴ 繋がれざる者』に似てる…。
少々話が脱線しますが、基本的にハリウッドで作られている脚本は物語を3つの大きな幕(=展開)に分けた《三幕構成》という理論に基づいて書かれています。
しかしタランティーノ作品─とりわけ前述した『イングロリアス・バスターズ』と『ジャンゴ 繋がれざる者』の2作と本作には第4幕が存在するんですよ。
オレンチ
そもそもタランティーノ作品においては三幕構成に基づかれているかどうかも怪しいですが(笑)
故に他とは一線を画して見えるのでしょう。
その第4幕とはいわば、正義。
つまりタランティーノは歴史上成されなかった正義を、映画という媒体を利用して正義を下しているんです。
今ではすっかりタランティーノの代名詞の一つになったゴア描写ですが、今回は最後の最後まで封印されていましたね。
溜めた分、ラストでこれでもかというほど怒りを爆発させてくれました。未だかつでこれほどまで気持ちのいいゴア描写があったでしょうか。
事件の残忍性を知っていれば、多くの人が同じような制裁を凶悪犯たちに下したいと思ったことでしょう。
これはもはや新しいカタルシスの形ですよ。
『イングロリアス・バスターズ』にしても『ジャンゴ 繋がれざる者』にしても本作にしても、死ぬべき奴が死ぬべき方法で死ぬんですから気持ちいに違いないですよ。
タランティーノからしてみれば目には目を歯には歯を。なのでしょう。
オレンチ
シャロン・テート殺人事件をそっくりそのままどんでん返しに繋げてくるとは発想の天才度が異次元ですね笑
にしてもタランティーノはラスト13分の盛り上げ方が非常に上手いですね。
派手な演出やそれらしいスピーチで鼓舞するのではなく、誰もが知っている残忍な事件を逆手に取ったんです。
事件の経緯を知っていれば、本来幸せを感じるはずの生まれてくる子供のために用意された部屋のカットは、反転して切なさしか感じません。これぞ映画のマジックですよね。
その切なさを引きづりながらマンソンファミリーが登場するとそのまま怒りへと変わります。
あとはもう我らがリック&クリフが成敗してくれるという寸法です。
ハリウッドの過渡期
本作を語る上でもう一つ、ハリウッドの映画史を知っておくべきでしょう。
本作が関わる映画史については町山智浩さんの『<映画の味方>がわかる本』を読んでいただくのが一番手っ取り早く面白いです。
ここでも簡単に説明させていただくと、1960年〜70年代というはハリウッドで大きな過渡期を迎えた時代でした。
アメリカンニューシネマというムーブメントの到来です。
アメリカンニューシネマが何をもたらしたと言えば、ハリウッドの解体です。
60年代前半のハリウッドでは新人を全く採用せず、スタッフの平均年齢は60歳を超えていたそうです。当然彼らが作る作品は《古く》、飽きられて行きました。
そこへフランスの映画革命・ヌーヴェルヴァーグに背中を押され、アメリカンニューシネマがのムーブメントが始まるのです。
ここで重要なのがアメリカンニューシネマ特徴ですが、その大きな特徴は国家権力への反発です。
ベトナム戦争の闇がテレビで放送されたことをきっかけに、当時の若者たちは政府を信じられなくなり、その反発のためヒッピーが生まれます。
彼らは60歳が作る生ぬるいミュージカル映画や英雄が活躍する西部劇よりも、強盗や社会に抗う若者を描いたアウトローな映画を求めたのです。
これがアメリカンニューシネマであり、リックとダルトンを襲った過渡期です。
とりわけタランティーノはこの時代に強い思い入れがあったと言います。
思い返せばタランティーノ作品3作目『ジャッキー・ブラウン』はアメリカンニューシネマの傑作、ダスティン・ホフマン主演の『卒業』を思いっきりオマージュしていますし、本作でも『卒業』で流れたサイモン&ガーファンクルがラジオから聞こえてきました。
さらにもっと遡ると、ハリウッドはサイレント映画からトーキー映画へと変化した過渡期を経験しています。
アカデミー賞受賞作『アーティスト』だったり、ミュージカル映画の名作『雨に唄えば』はトーキーへと移り変わる過渡期を描いた作品です。
オレンチ
『雨に唄えば』のブルーレイに収録されている特典がマジでオススメです!
何が言いたいかというと、何かのタイミングで物事は過渡期を迎えるということです。
タランティーノが意識したかどうかは定かではないですが、2019年現在。ハリウッドは大きな過渡期を迎えていると僕は思っています。
何が変わろうとしているかというと、ポリティカルコレクトについてだと思います。
2017年にハーヴェイ・ワインスタイン問題からハリウッドは大きく変わりました。
以来『バトルオブセクシーズ』や『ペンタゴンペーパーズ』のようなポリコレを意識した作品が多く見られるようになりました。
『MIB:インターナショナル』や『X-MEN:ダークフェニックス』のようなポリコレを茶化した─どちらもMENをいじってる─ような作品は消えてしかるべきだと思いますが、求められている作品が着実に変わって行きてることは事実だと思います。
『リトルマーメイド』の実写化にあたり主演女優が黒人女性だったことについて物議を醸していますね。
原作が白人で描かれているから白人じゃなくてはならないという方がいますが、それは最早偏見ですよ。肌の色なぞ関係なく、その物語の最善を選ぶべきなのに。
アメリカンシューシネマが例のように、映画は時代を映す鏡です。
今ポリコレを意識した作品が多く作られているということはそういうことなんです。
思えば『トイ・ストーリー4』も過渡期の物語でした。
きっと時代を受け入れなければならないタイミングがすぐ側までやってきているのでしょう。リック・ダルトンのように。
タランティーノの術
それにしてもリック・ダルトンとクリフ・ブースのコンビは愛おしかったですね!笑
おそらく本作においては、リック・ダルトンがクリフ・ブースのヒロインで、クリフ・ブースがリック・ダルトンのヒロインなんだと思います。笑
一緒に二人の出演作を楽しそうに鑑賞しているシーンは、さながらラブシーンのようでした笑
それはさておき、本作もタランティーノの監督術が光っていましたね。
僕が驚いたのがリック・ダルトンがマーヴィン・シュワーズ(アル・パチーノ)にマカロニウエスタンを打診されるシーンです。
なんとここ、イマジナリーラインを超えてしまうんです。
イマジナリーラインとは主に被写体が対話するシーンに用いられる架空の線のことを言います。このイマジナリーラインですが、これを超えることはタブーとされているのです。なぜならショットで同士をつないだとき、被写体の視線がかみ合わなくなってしまい、不自然なシーンが完成してしまうからです。
ではタランティーノはこの違和感をどのように利用したかというと、主導権の反転ですね。
始めシュワーズはリック・ダルトンを持ち上げるような会話をし、リックもまんざらでもない様子でしたが、イタリア映画の話を持ち出されたタイミングで、カメラはダルトンをやや正面に捉えズームしていきます。
このズームは心境の変化を表します。次のショットから今まで守られていたイマジナリーラインの原則を破り逆側から対話を捉えています。すると対話の主導権は逆転し、リックが追い込まれていくことを演出していたのです。
さらに、ヌーヴェル・ヴァーグの先駆けとも言える『勝手にしやがれ』でジャン・リュック=ゴダールが(偶然)開発したジャンプカットも多用されていましたね。例えばリックがセリフを忘れてしまい控え室に戻った時、癇癪の経過時間を長く感じさせるように利用されていました。
もう一つ面白かったのがオープンフレームの活用です。
オープンフレームとは、フレームの外─つまりスクリーンに映っている外側のことを言います。
本作でリックの撮影中のシーンはオープンフレームが多用されていました。
しかもシーンの始めはオープンフレームを意識させないように見せるから面白いんです。あたかも今リック主演の映画を見ているかのような感覚にさせておきながら、リックがセリフをど忘れすると、急にオープフレームが介入します。
まさに映画を外側から捉えた映画と言えるでしょう。
映画を外側から捉えたといえば、タランティーノ作品は映画というものについての表現がよく含まれます。
シャロン・テートが自身の出演作を見て、観客の反応を機にするのは正にそれですね。
オレンチ
ちなみにシャロン・テートがその後に小説「テス」を買うシーンがありますが、10年後ポランスキー監督で映画化されることになります。
最後にちらっとうつされた『ジョアンナ』のポスターですがこの作品のレビューは尊敬するふかづめ氏のレビューが最高に面白いので是非ご覧ください。
その物語の最善が白人だと思われるということではないんでしょうか?一般論的に。私も人種差別を憎んでいます。と同時に黒人文化が大好きです。
原作が白人なら映画も白人。これは一般的に当然の理論であって、それを唱える人を否定するのは少し乱暴なのでは。多様性は尊重すべきですが、どうしても違和感はあるわけです。白人でなくてはならないと言っている人を偏見だと断じてしまうそれは、また偏見を含んでいるのではないでしょうか。誰もが深く考えているわけではないのです。そういった意見も理解しなければならない。問題意識を持っている人が、問題を理解し、なぜそういったことが起こるかを理解しなければならないんです。そういう意見を言う人がいるのも当然のことだと思っていなければいけないのです。そうでなければ意識を変えることはできない。
そしてそれは問題意識を持っている人の義務でると考えています。そうでなければ、新たに衝突がひとつ増えるだけなのですから。
ryoさん、コメントありがとうございます!
>その物語の最善が白人だと思われるということではないんでしょうか?
確かにおっしゃる通りですね。例えば、ネルソン・マンデラの伝記映画を白人が…となるとその物語には黒人が最善ということになるでしょう。
ただフィクションにおいては肌の色で最善が決まることは無いんじゃないかなと思います。時代背景絡みでそこに存在すべきではない人種でしたらそれは最善ではないと思います。
最善とは個性であり、個性は肌の色で決まるものではないと思う次第です。
>それを唱える人を否定するのは少し乱暴なのでは。
確かにおっしゃる通り乱暴でした。その点は返す言葉も見つかりません・・・
ただ原作が白人なら映画も白人。という理論自体が乱暴なようにも感じます。根拠が薄いといったらいいのかな。思い込み?
要するにそういった一般的だと認識していることが変わるべき過渡期にあるんじゃないかと僕は思うんですよね。
攻撃的な返信になってしまっていたら申し訳ないです。
コメント頂けて本当に嬉しいですし、議論できることもめちゃくちゃ嬉しく感じております!
丁寧に返信頂いてありがとうございます!
いつも楽しく拝見させて頂いています。映画好きですが、そこまでくわしくはないので勉強させてもらっています。
こちらこそいきなり攻撃的なコメントで申し訳ありませんでした。いつもおもしろい文章を書く方だなぁと思っていたので、思い入れがあった分引っ掛かってしまいました。特に人種という自分が強く問題意識を持っている部分ということもありました。
原作が白人なら白人というのは一般的にそう思うのが普通だと思いますということで、僕もそう思っているわけではないです。アリエルが黒人だということに違和感を持つというのは全然理解できることだし、そういう意見も理解しなければいけないという意味で言いました。
最近のディズニーはポリティカルコレクトを意識しすぎて作品に影響していると思っています。仮にアリエルが白人にキャスティングされてもきっと誰も問題があるとは思わない。でもあえて黒人にした。なんかいわゆる意識高い系のような押しつけがましさを感じるんです。うちはポリコレ超意識してますよ~みたいな。それもそれでなんか嫌っていう。
実写版アラジンも原作にはなかった女性の強さみたいなものにフォーカスしました。確かに現代でリメイクするなら原作にはなかったテーマなりなんなりを入れ込む必要が絶対にあるはずです。ですが、あれはどうなんだろうと。入れ込んだことで原作の良さが薄れているのではないかと思いました。私は実写版アラジンは嫌いです・・・そもそもジムキャリーの全盛期にジーニーやらせとけば良かったんじゃないかと笑
ウィルスミスは悪くなかったと思いますけど。
ディズニーがアリエルに黒人であるハリーベイリーをキャスティングした必然性が感じられる作品を作ってくれることを願っています。見た後に、これはハリーベイリー以外考えられないと思えるような。そうでなければポリコレ超意識してますからアピールで終わってしまうのではと・・・
長々すいません。自分も議論が好きなタイプなんです。映画に関してはオレンチさんと議論できるほどの知識も了見も持ち合わせていないもので笑
>いつも楽しく拝見させて頂いています
何と嬉しいお言葉!いつもありがとうございます!
攻撃的だなんてそんなそんな。こんな弱小ブログにコメントをいただけるというだけで、神様的存在でございますw
何卒今後ともよろしくお願いいたします!!
>なんかいわゆる意識高い系のような押しつけがましさを感じるんです。
時代に流行りがある以上、この問題はついてまわりますよね。
『MIB:インターナショナル』とか『X-MEN:ダークフェニックス』みたいに、MEN(=男)という単語にいちゃもんをつけたような押しつけのポリコレは僕もいかがなものかと思います。
>アリエルが黒人だということに違和感を持つというのは全然理解できること
これもわかります。というか僕も正直なところ現状は違和感でいっぱいですw
ただ、ryoさんもコメントの後半でおっしゃっている通り、《ハリーベイリーをキャスティングした必然性》が作品には隠れている可能性もあると思います。
結局のところ自分の目で確かめないと押しつけのポリコレか必然なのかはわからないと思うんです。
まだ観る前に違和感を声に出してしまうのは必然を殺しかねないかなと思うのが僕の考えです。なんか脱線しちゃってます?w
僕も映画に関して誰かと議論できるほどの知識も了見もないですが、日々勉強して出来る限り面白い記事をお届けできるよう頑張っています!
ぜひぜひ今後も突っ込みどころや気になったところなどドシドシコメントください!w
ほめてもらっても嬉しいかも!?w