今回はお話ししていく映画は『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』についてです。
メガホンを取るのは『スパイダーマン:ホームカミング』(2017)『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』(2019)から引き続きジョン・ワッツ。出演はトム・ホランド、ゼンテイヤ、ジェイコブ・バタロンらに加え、ジョン・ファヴローやマリサ・トメイなどお馴染みのキャストが続投しています。
前作『ファー・フロム・ホーム』のラストでとんでもない暴露を喰らってしまったスパイダーマンことピーター・パーカー。それがキッカケなのか予告編を見る限りアメコミ映画史を揺るがす大事件が発生している本作…。
オレンチ
というわけで以下目次より行ってみよう!
『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』のネタバレ感想・解説・考察
サプライズのオアシス
これまで幾度となくマルチバースを示唆してきたMCUですが、『アベンジャーズ/エンドゲーム』ではマルチバースというより過去でしたし、『ワンダヴィジョン』ではサプライズ的にマルチバースが登場したかと思えましたがまさかのフェイクでしたよね。
『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』では物語の骨子にマルチバースが関わっていると思わせておきながらこちらもやはりフェイクでした。
『ファー・フロム・ホーム』の場合、マルチバースがフェイクだったという点にミステリオのミスディレクション感が溢れており、作劇的にはうまく機能しているんですけどね。
オレンチ
ミステリオことクエンティン・ベックは別のユニバースからやってきたと豪語していましたが、真っ赤な嘘でしたよね。
このようにマルチバースが描かれそうで描かれていなかった状況が続いていた訳ですが、ようやく『ロキ』でマルチバースが物語の骨子となって姿を表し出しました。続く『ホワット・イフ・・・?』ではマルチバースそのものがテーマになっていました。
そんな流れでようやく劇場公開作にマルチバース運んできたのが本作『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』です。本作の物語はマルチバース無くして絶対に成立しないと言えるほど、マルチバースが物語の背骨に──、竜骨に──、骨子になっていました。
しかもアイアンマンでもなく、キャプテン・アメリカでもなく、ソーでもなく、スパイダーマンにしかできないことに挑戦している点が、とても素晴らしかったと思います。
というのはここまで20年間という時間の流れの中で2度のリブートを行ったシリーズだからこそ、本作のような過去作からヴィランが集結するという脚本を作り出せたんですよね。映画と共に過ごした20年という時間があったからこそのサプライズと言えるでしょう。
同じマルチバースをテーマとして扱った『ロキ』や『ホワット・イフ・・・?』と味わい深さの一線を画するのは、こういった背景があると思います。あの頃のあいつと、あの時のあいつが同じスクリーンに・・・!という感動が確かにありました。
オレンチ
ヴィランが集結することは予告で示唆されていたため厳密にはサプライズではないんですけど、やはりスクリーンで見るとサプライズくらいの衝撃がありましたよね。
さて本作には大きめなサプライズが後2つ用意されています。
1つ目は、”優秀な弁護士”ことマードックの登場。何を隠そう彼は盲目のヒーロー、デアデビルなんですよね。本作でマードックを演じているのはチャーリー・コックスでNetflixで配信されていた『デアデビル』の主演と同じ俳優です。
ネットフリックスで配信されているチャーリー・コックス主演の『デアデビル』
以前からMCUと同じ世界線と言及されており、本流への合流が示唆されていましたが、まさかのサプライズ的な登場となりました。
オレンチ
実はチャーリー・コックス版の『デアデビル』は恥ずかしながら未見・・・。劇場を出た後早速ポチりましたw
2つ目は、トビー・マクガイアとアンドリュー・ガーフィールドの共演。本作を語るには語らずして通れないですよね。
アンドリュー・ガーフィールドが素顔を表した瞬間、劇場の動揺は隠せませんでしたし、僕も動揺していた一人です。半ばわかっちゃいたけど溢れ出す感動が抑えきれませんでした。
先輩とも言える二人のスパイダーマンの登場や、過去からやってきたヴィランたち。彼らはただサプライズで終わるわけではなく、トムホ版『スパイダーマン』三部作に重要な役割を担っているように思えるのです。
というわけで次の章から、先輩スパイダーマンと別次元からやってきたヴィランの役割について少しずつ語っていきたいと思います。
子供から大人へ。三部作という歩み
さてトムホ版スパイダーマンと他のスパイダーマンとの大きな違いは、トムホ版スパイダーマンはまだ子供だという点にあります。
彼はまだ高校生ですし、本作の劇中でもドクター・ストレンジに「共に戦った中だから忘れてしまうが、まだ子供だ」と言及されていました。
ただ年齢的に子供だと言っているわけではありません。
三部作を俯瞰的に観ると、トムホ版スパイダーマンが子供として作劇されていることがよくわかります。
オレンチ
ライミ版『スパイダーマン』は早々に高校を卒業しますし、『アメイジング・スパイダーマン』は2の冒頭で高校を卒業していますよね。
本作を含めジョン・ワッツが手がけたスパイダーマンを振り返ってみると、ピーター・パーカーの隣には必ず大人がいましたよね。
『スパイダーマン:ホームカミング』ではトニー・スタークが、『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』ではニック・フューリー(正体はタロスでしたが)が、そして本作『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』にはドクター・ストレンジが。それぞれの作品で《子供》を見守るような形で《大人》がいたんです。
つまりトムホ版ピーターはまだ自立できていないと言えるかと思います。
このような状況になっているのはMCUという世界観も関係していて、MCUの世界にはすでにピーターの手本となるヒーローが数多に存在しているからとも考えられますし、この三部作はそういった世界観をうまく利用しているように思えます。
『スパイダーマン:ホームカミング』評でも言及しましたが、ピーターのアベンジャーズへの憧れがある種学園コメディ感を演出していたかと思います。
オレンチ
ジョン・ワッツ監督作『コップ・カー』を思い返すと、ジョン・ワッツは「大人と子供との間に生じる何か」を描く作家のようで、もしMCUプロデューサー陣がそれを見抜いてでのスタッフィングだったとしたら、凄すぎるプロデュース力ですよね。
悪ガキ二人組(子供)が汚職警官(大人)のパトカーを盗んでしまったことで、悲劇的に状況が悪くなっていくサスペンス作品。
登場するヴィランにもまた顕著な違いがありまして『ホームカミング』や『ファー・フロム・ホーム』のヴィランは、ピーターに直接恨みを持った相手ではなかったですよね。
対する本作に登場する別シリーズのヴィランたちは、いずれもピーター(スパイダーマン)に逆恨みをした上で直接ピーターの命を狙ってきた相手でした。
つまりある意味トムホ版ピーターは、本作で初めて自分の戦いを強いられていると言えるかと思います。
そんな自分の戦いの中で、メイおばさんの死という悲しい出来事を迎えることになりますよね。皮肉かなスパイダーマンにおける名台詞であり、スーパーヒーローにおける名台詞でもある「大いなる力には大いなる責任が伴う」という偉大な言葉は、ピーター・パーカーの大切な人を奪う呪いの呪文でもあるようです。
『スパイダーマン:ホームカミング』評で「このシリーズはオリジンを描かなかった」と評しましたが、ここにきてその考察が間違いだったことに気付かされました。
ジョン・ワッツ版『スパイダーマン』三部作は、オリジンを描かなかったのではなく、三部作そのものがスパイダーマンのオリジンだったのだと思います。
「大いなる力には大いなる責任が伴う」という偉大な言葉はここまであえて口にしなかったのでしょう。またスパイダーマンとは切っても切れない「大切な人の死」というエピソードはかつて無いほど感動的なものになっていたかと思います。
というのも本作で亡くなってしまうメイおばさんと観客との間にはシリーズを通して共に過ごした時間があり、その時間の分だけ情が芽生えているのです。
これはライミ版『スパイダーマン』シリーズや『アメイジング・スパイダーマン』シリーズには絶対に出せない味ですよね。
観客が感情を持っている以上、こういった要素は映画を語る上て無視できない要素だと思います。無感情で映画の手法や方法論、技術論などだけを見ていた方が、映画鑑賞として死んでいますよね。
オレンチ
正直、過去スパイダーマンを見てきた中で初めて涙を流したシーンでした。ただもっと号泣したシーンはその先にあったので、後ほど語りたいと思います。
というわけで、トビー版ピーターやアンドリュー版ピーターが乗り越えてきた──、ある意味でスパイダーマンの通過儀礼的な出来事が本作で発生するわけです。
この悲劇を乗り越えるために手を差し伸べるのが、トニー・スタークでもなくドクター・ストレンジでもなく、もちろんニック・フューリーでもなく、同じ苦しさを味わったピーター・パーカーたちだという点にとても大きな意義があると思います。
さて本作にはメイおばさんの言葉通り、責任というテーマも梱包されており第一幕を観るとよくわかります。
メイおばさんの死を乗り越えて一皮剥けたピーターが、自分の欲求よりも友の幸せを願うというヒーロー的──、自己犠牲的で少しビター選択をする結末が、トムホ版ピーターが大人へとステップアップした何よりの証拠ではないでしょうか。
ちなみにキャプテン・アメリカのシールドの上で殴り合うラストバトルですが、『メタルギアソリッド4』のラストバトルが頭をよぎった人がいたのでは無いでしょうか。僕がまさにそうなんですが、『メタルギアソリッド4』のこの演出も何かの映画の引用なんですよね。
せっかくだから本レビューでも言及しようと思ったんですが、全く思い出せず・・。思い出したら追記します。
ムズムズに見る撮影技法
『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』あたりから言及されるようになったスパイダーマンの「ムズムズ」。このムズムズは「超人的な身体能力」「スパイダーウェブ」に並ぶスパイダーマンの能力「スパイダーセンス」というものなんですよね。
オレンチ
要するに第六感ってやつですね。
『スパイダーバース』ではアニメ作品であることをうまく使い、わかりやすい演出がされていました。
実写版ではこのようなアニメ的演出は難しく、バレットタイムのようなスローモーションを使ったり、ピーターの眼球にクローズアップしたショットを用いたりと工夫されていましたね。
そんな中で本作『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』でのムズムズショットは、『スパイダーマン』映画作史上で最も重要かつ凶悪な場面で用いられています。ちょうど第二幕〜第三幕に切り替わる第二ターニングポイントとしても役立っており、そのシーンと言うのがゴブリンの好計を察知するシーンです。
その凶悪さを表現するために最も適切な撮影技法が選択されており、その技法というのがドリーズームショットというものです。
ドリーズームはドリーとズームを組み合わせたショットで、カメラを被写体に近づけながら被写体をズームアウトしていくもしくは、カメラを被写体から遠ざけながら被写体をズームインしていく技法です。
被写体が近づいてくるのに対し背景はどんどん遠ざかっていく、もしくは被写体が遠ざかっていくのに対し背景はどんどん近づいてくるような映像を撮ることができます。
ドリーズームの効果が世界的に知れ渡ったのがアルフレッド・ヒッチコック監督の『めまい』で、主人公の高所恐怖症を効果的に表現していました。
もう一つ好例として挙げられるのがスティーヴン・スピルバーグ監督の名作『ジョーズ』で、海岸で人喰いザメが人を襲うのを目の当たりにするブロディ署長に使われています。
このようにドリーズームは何か良くないことが起こった・もしくは起こりそうな予感に気づいた人物の心境を表すために用いられます。
故にゴブリンの奸計に気づいたピーターの心境を表すのに最も適切だと言えるでしょう。
完結した『アメイジング・スパイダーマン』
最後にもう少しだけトムホ版ピーターのユニバースに登場した二人のスパイダーマンについてお話ししていきたいと思います。
特にアンドリュー版ピーターについては語りたい部分が多いです。
とりあえずコメディシーンとしても機能していた「僕はしょぼい」というアンドリュー版ピーターに対して「君はアメイジングだ!」と慰めるシーンは最高でしたね。
これには志半ばで終わってしまった『アメイジング・スパイダーマン』シリーズに対する嘆きと慰めというメタフィクション的な感情が込められていたと思います。
さて本作中で僕が最も泣いた──、というかアメコミ映画上で最も泣いたかもしれないシーンが本作のアンドリュー版ピーターのシーンにありました。
そのシーンというのは、アンドリュー版ピーターが鉄骨から落ちたMJを救うシーンです。
一見、いつものようにスパイダーマンがヒロインを救うシーンに見えますが、MJが落下しトムホ版ピーターがMJの救出に失敗した次の瞬間、一瞬だけアンドリュー版ピーターを被写体にしたカットが写ります。
僕はその次のカットで急に涙が溢れてきたんです。
なぜならMJが落ちていくカットが、エマ・ストーン演じるグウェン・ステイシーが『アメイジング・スパイダーマン2』で亡くなる直前のシーンと酷似していたからです。
トムホ版ピーターがメイおばさんを亡くして打ちひしがれるいる時、トビー版ピーターはベンおじさんのことを引き合いにだし、アンドリュー版ピーターはグウェンのことを引き合いに出していました。
一応『アメイジング・スパイダーマン2』のラストでアンドリュー版ピーターはグウェンの死を乗り越えてはいますが、そのままシリーズが終了してしまったので、何か胸につかえるものがあった人も多いと思います。
オレンチ
僕はまさに何かが胸につかえた状態でした。
しかし多次元を超えてやってきた世界線で、今度はピーター・パーカーの最愛の人を救うことができたんです。
『アメイジング・スパイダーマン2』のグウェン・ステイシーと同じ構図になっているということは、明らかにアンドリュー版ピーターを意識してのことですし、彼や僕のような何かが胸につかえた人に対する救済だったように思えます。
オレンチ
同じ構図を使って観客の記憶とリンクさせる手腕が見事ですよね!
最愛の人を守れたアンドリュー版ピーターをもって『アメイジング・スパイダーマン』はここに完結することができたのではないでしょうか。