オレンチ
こんにちは!オレンチです!
今回は1977年公開、メル・ギブソンの出世作『マッドマックス』について書いていこうと思います。
およそ5年ぶり─、おそらく3度目の鑑賞なのですが、なんで今初代『マッドマックス』なのかというと・・・。
なんとツイッタ―で大変お世話になっているkeiさん(@1977swthx)からリクエストを頂いちゃったんです!!!笑(リクエストもらったのは数カ月前でむちゃくちゃカメなんですが・・・keiさんすみません。。。)
おそらく後にも先にも最後のリクエストなわけなんですが、ゆっくりと走りきろうと思います。笑
というわけで、今回は字幕版、吹替え版を鑑賞した後、「安原義人さん(マックスの吹替え担当)による音声解説」というありがたいのか、ありがたくないのか良くわからない(実際はありがたかったです!)コメンタリーで計3回ほど鑑賞してみました!
オレンチ
累計5回の鑑賞になりました!笑
作品情報
- 原題:Mad Max
- 制作:1979年/オーストラリア
- 上映時間:93分
スタッフ
- 監督:ジョージ・ミラー
- 脚本:ジョージ・ミラー
- 制作:バイロン・ケネディ
- 音楽:ブライアン・メイ
- 撮影:デヴィッド・エグビー
オレンチ
音楽がまさかのレジェンズ、ブライアン・メイ!笑
キャスト
- マックス:メル・ギブソン
- グース:スティーヴ・ビズレー
- フィフィ:ロジャー・ワード
- トーカッター:ヒュー・キース・バーン
- ババ・ザネッティ:ジョフ・パリー
- ジョニー・ザ・ボーイ:ティム・バーンズ
感想
まずは誠に勝手ながら0.5刻みの5段階で僕の満足度を表すと・・・
[jinstar3.0 color=”#ffc32c” size=”50px”]オレンチ
3.0といった感じ!
それでは僕なりの感想をいくつかの段落に分けて書いていこうと思います!
初鑑賞と先入観
近未来。荒廃したオーストラリアの路上を舞台に繰り広げられるカーチェイス劇─。
ということで、「M.F.P.」という特殊警察に所属する主人公マックスが凶悪な暴走族を根こそぎ成敗するお話なんですが・・・。
今からおよそ15年前、僕が初めて本作を鑑賞した時の感想は、
「全然世紀末じゃないじゃーん!!」
でした。
そう感じてしまった原因は僕がマッドマックスの世界に入り込んだルートが強く関係しております。
そのルートの起源はTVゲーム会社ベゼスダ(Bethesda)の『フォールアウト』にあります。
『フォールアウト』は核戦争で滅んだアメリカを自由に冒険するゲームでして、世界観だけ拾ったらまさしくマッドマックスの世界なんです。(厳密には『マッドマックス』より以前の終末SF的スペキュレイティブ・フィクションがベースになっている気がします。)
『フォールアウト』の主人公が犬を連れて歩く姿が『マッドマックス2』のオマージュだということを知り、「これは見なければ!」という浅い使命感によって、シリーズの門を叩くことになったのです。
要するに『フォールアウト』のような世界 = 核戦争後の荒廃した世界を期待していたんですね。こう言ったSFのサブジャンルを《世紀末もの》とか《ポストアポカリプス(終末のその先)》などと言うので興味があればググってみてくださいな。
で、門を開けた先に広がっていたのは「思ってたんと違う」世界でした。
なぜ次作『マッドマックス2』から急に舞台設定に変化がったかについては、『マッドマックス2』評にてお話できそうならしてみます。笑
まとめると、第一印象はあまり良くなかったんですよ。
ただですね、5年前や今回の鑑賞は第一印象の悪い印象が嘘のように楽しめたんです。
つまるところ映画に先入観をもって挑むのは危険だなぁと思いますし、複数回鑑賞することで違った見え方がしてくるなとつくづく思った次第です。
先入観をどう回避すれば良いかは難しいところですけどね。(ネタバレ踏む危険もあるしね。)
《生っぽさ》と車を役者に変えた撮影・編集
というわけで僕の思い出話に866文字も使ってしまいましたが、いよいよ本題です。
本作『マッドマックス』で兎にも角にも特筆すべきはカーチェイスです。どんな角度で観たってこればっかりは外せないでしょう。
VFXが映画作りに欠かせなくなった昨今『ワイルドスピード』シリーズや『トランスポーター』シリーズなど、CGを駆使したカーアクション映画が数多く生み出され、我々映画ファンはそれらの常識を逸したスペクタクルな映像に魅了され興奮しました。
本作にはVFXが生み出すような映像はありませんが、その代わりに本物が魅せる《生っぽさ》が色濃く残る作品です。
《生っぽさ》とは言わずもがなスタントマンが本物の車を操作し、カースタントを披露している映像のことです。(倍速編集によってスピード感を演出したりしてますが。)
この《生っぽさ》にはある種スタントショーを見ているような─、またはエクスストリームスポーツの大会を見ているようなVFXには決して引き出せない麻薬の様な作用を感じます。(RedBullTVなどで、エクスストリームスポーツは山ほど見れるよ!)
とりわけ『マッドマックス』には同じ70年代のカーチェイス映画と比較してみても《生っぽさ》は頭一つ抜け出しているように感じます。
なぜそう感じるのかと言うと、クラッシュシーンの多さが関係していることは明白でしょう。
冒頭のツカミ部分からエンディング直前まで、クラッシュシーンのオンパレードであり、冒頭に至っては「本当にそれで走れんのけ?」と思ってしまうほどスクラップ同然の状態でカーチェイスを続行したりします。
クラッシュシーンの多さを証明するように、70年代~80年代の日本では「スタントマンが大勢死んだ映画」として語りづかれていたそうです笑。(当時は詐欺レベルの誇張によるマーケティングが当然の様に行われていたようで、『マッドマックス』もその一部なのかもしれません。)
とくにマックスのスーパーチャージャーV8インターセプターに追い込まれ、橋の上でスリップするバイクスタントシーンにおいて、スタントマンの後頭部にクラッシュしたバイクが突っ込む瞬間がとらえられており、そのシーンは「絶対死んでる!!」と当時大きな話題になったそうです。
誤解の無いようお伝えしておくと、『マッドマックス』の撮影でスタントマンは1名も亡くなっておりません。
そんな《生っぽさ》を原題に蘇らせたのがクエンティン・タランティーノ監督による『デス・プルーフ』です。その証拠にタランティーノは影響を受けた作品に『バニシングポイント』や『マッドマックス』を挙げています。(『バニシングポイント』にもって言えば、言われなくても劇中に大きく反映されてますしねw)
また《生っぽさ》に加え、編集においても70年代初頭のカーチェイス映画に比べるとフレッシュな印象があります。
タランティーノが「カーチェイスは編集が命」と語っているように、編集によって与える印象は大きく変わります。
『マッドマックス』よりも前のアメリカによるカーチェイス映画は、定点カメラによるロングショットやクラッシュをとらえたショット、空撮で車を追い撮りしたり、並走によってスピード感を演出していました。
要するにカメラはカメラとしてそこに存在し、被写体として車や主人公を写していたんです。
しかし『マッドマックス』は少々違います。
何処が違うのか端的にいえば、極端にカメラの位置が低いんです。
とりわけ印象深いのは、マックスが初めて登場するシーン。登場と言うか足しか写って無いのですが、マックスが向いている方向と車が向いている方向は同じ角度となっており、《車の目線》のような低さで撮影されているため、この車がマックスと共に獲物を狙っているように見えるんです。
《車の目線》というのがミソで、このように撮影することによって車に意思があるように見えてくるんです。
《車の目線》で撮影されたシーンは他にも多く存在しており、とりわけ黒のV8インターセプターに乗り込んでからは顕著に表れています。
例えば車のサイドに取り付けられ、インターセプターの主観の様なショットだったり、同じ定点カメラでも低い位置で、正面からインターセプターをとらえ、カメラの位置までインターセプターが来ると通り過ぎる姿をリバースショットで映し出すなどそのバリエーションは豊かです。
獲物を虎視眈々と狙うマックスとインターセプター。特にインターセプターは撮影と編集によってまるで役者のように変化をとげ、まさしく目で語る演技がこの作品のバイオレンスさを増幅させているように感じました。
追われるから追うカーチェイスへ
60年代の終わり─『俺たちに明日はない』『卒業』『イージー・ライダー』などの出現により、70年代初めのハリウッドではまさにアメリカン・ニューシネマブームが到来し、アメリカにはフラワーチャイルドで溢れていました。
アメリカン・ニューシネマはカーチェイス映画にも影響を及ぼし、70年代初頭に作られたカーチェイス映画は『バニシング・ポイント』や『ダーティー・メリー クレイジー・ラリー』のような、権力に反感し自由を求めたことがきっかけで起こる《追われるカーチェイス》でした。
そんなフラワーチャイルドやアメリカン・ニューシネマは1970年代後半にかけてゆっくりと収束していきます。
国民が政府に反抗した1970年代を映画評論家の町山智浩さんは《アメリカの反抗期》と面白く比喩していますが、そんな《アメリカの反抗期》の終わりを示すかのようにオーストラリアから現れたのが『マッドマックス』です。
政府に反旗をひるがえすアウトローこそ理想像だった反抗期は自然と終わり、反抗期だった青年が大人になったような主人公が新たな理想像に変わったことで、カーチェイスも《追うカーチェイス》に変わっていったように思えます。
その証拠にマックスは果てることなく、生き延び、次なる冒険へ向かうようなラストを飾りました。
SFとしての『マッドマックス』
低予算ながらSFという点にも少しだけ注目してみたいと思います。
古くから映画界を賑わせる未来や別銀河のSF作品は、現代の地球の常識とはかけ離れた世界観が最もなウリの一つです。
そのようなSF作品に重要なのが《衣・食・住》に革命を起こすこと。この3つにどれだけこだわれるかによって、独創的な世界観を作り出せるかが左右されます。
『スターウォーズ』や『アバター』など代名詞的なSFはこれらに強い拘りを感じれますし、MCUの『ブラックパンサー』も現代の地球でありながら、圧倒的に発達した鎖国国家を表現するため《衣・食・住》に強いこだわりをみせました。
『ブラックパンサー』の住に至っては『ブレードランナー』以来のポストモダン的だと称賛されましたし、監督のライアン・クーグラーは《食》にこだわったお言います。
しかしこのようなSF作品は、ここまで語ってきたように《衣・食・住》に革命を起こそうとすると、必然的に予算が膨大に膨らんでしまうというデメリットをはらんでいます。
そのデメリットを上手く回避するように構成された世界観が荒廃した近未来だったのではなかったのでしょうか。
荒廃した近未来ならば、予算のかかる衣装やセットは必要なく、寄せ集めで作った衣装や廃墟を舞台にすれば成立します。
このように出せないパフォーマンスを武器に変えるような発想は、小島秀夫監督の発想に良く似ているように感じます。
小島監督は『メタルギア』を生みだしたとき、激しい銃撃戦は当時のゲーム機のスペック的に不可能だったため、ステルスゲームとしてミリタリー作品として『メタルギア』を作り上げたことは有名な話です。
また《衣・食・住》とはあまり関係ないのですが、未来のセットを意識せずに制作された作品としてジャン=リュック・ゴダールの『アルファヴィル』などもあります。
あとがき
ここまで読んでいただきありがとうございます。
今回はマックスの人物像や適役のトーカッターなどについてはあまり深く掘り下げませんでしが、(マックスがあんまりしゃべらないしね!笑)マックスがたどる報復の道はあらゆる物語に良くある縮図ですよね。
ちょっといやしいところを突っ込めば、両親ともども歩くこともままらない子供をほったらかしてなにしとんてん!!と言いたいし、特に母親は息子をほっといたままビーチへ一人遊びに行った挙句、昼寝をする始末だし、ショットガンばあさんは子守りをしているようでしてないしと思いますが、マックスを報復の道へ進めるプロットとして機能しているとします笑。
政府関係者っぽいおっちゃんの剣道フル装備など他にも気になるところが多々ありますが、やはり漆黒のインターセプターは未来永劫カッコいいし、ソードオフを構えるマックス=メル・ギブソンの若き日の姿は最高に渋いですよね。
きっとラストにマックスがジョニー・ザ・ボーイに与える罰は『ソウ』の元ネタでしょう笑。
オレンチ
それではまた!