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『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』解説ネタバレ感想・伏線・考察【評価】

オレンチ
オレンチ

はじめまして!オレンチと申します。

今回は2023年に公開されたジェームズ・マンゴールド監督の『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』についてお話ししていこうと思います。

ちなみに今回の作品を鑑賞するにあたり、ジェームズ・マンゴールド監督の過去作をいくつか再鑑賞してみました。その中で気づいた監督の作風みたいなところも交えて話していけたらと思います。

また『インディ・ジョーンズ』シリーズの特徴をまとめた記事も書いているので、興味がありましたらぜひそちらもよろしくお願いいたします。

『インディ・ジョーンズ』シリーズの魅力を深掘り分析!さらに面白くなること間違いなし!観るべき順番も解説 『インディ・ジョーンズ』シリーズの魅力を深掘り分析!さらに面白くなること間違いなし!観るべき順番も解説

というわけで早速ですが本題へと進んでいきましょう!

注意

この記事はネタバレを含みます。未鑑賞の方はご注意ください。

『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』のネタバレ感想・解説・考察

スティーヴン・スピルバーグからジェームズ・マンゴールドへ

インディ・ジョーンズシリーズとしては一作目となる『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(81)が公開されてから実に42年。この長い年月の中で、インディアナ・ジョーンズは我々は数々の冒険に連れ出し、数えきれないほどの興奮と感動を与えてくれました。

そんな彼の冒険も、おそらくこれが最後になるのかなと思います。

時間というのは誰しもに平等で、それはインディにとっても同じこと。生きた分だけ歳をとり、その長い人生の中では、ときに清算しきれなかった葛藤を生みます。

本作はそんな時の流れから生まれる”哀愁”のようなものが、テーマの1つとして与えられているように僕は感じます。

これまでのシリーズ4作はスティーヴン・スピルバーグが監督を務めていましたが、ここにきて『フォード vs フェラーリ』などのジェームズ・マンゴールドにバトンが渡されました。前述した”長い人生の中で清算しきれていない葛藤”や”時の流れから生まれる哀愁”をテーマにもった作品作りがジェームズ・マンゴールドの得意とするところなんです。

例えば彼の初期作『コップランド』や『3時10分、決断のとき』は、長いこと利用されていることを良しとしてきた中年男がついに立ち上がる物語だったり、ウルヴァリン三部作の終章となる『ローガン』では、ウルヴァリンとして人々を殺めてきたことに対する贖罪の旅の物語でした。

これらはどちらも長い人生が大前提として必要で、そんな人生に深く根付いた葛藤を与え、その葛藤を浄化する作品づくりがジェームズ・マンゴールドはとても上手いんです。

監督が決まる前からテーマの方向性が定まっていたかはわかりませんが、少なくとも完成した本作にはスティーヴン・スピルバーグとはまた違う、ジェームズ・マンゴールド感が味付けされていたように感じます。

本作には前述した”哀愁”のようなものを予想&期待していたので、個人的にはある程度観たいものが観れたという感覚でした。

ただしスティーヴン・スピルバーグ味で成長してきた本シリーズにとって、失われてしまったものも確かにあって、それについては後述していきます。

またある程度と言ったのは、手放しでは喜べない部分もあったためで、それについても後述していきます。

42年の哀愁

さて本作『インディ・ジョーンズ/運命のダイヤル』には、どんな”哀愁”が味付けされていたか少し深掘りしてみます。

例えば冒頭、インディが大学で講義をするシーン。これはシリーズとしてお馴染みのシーンで、変化球を求めた『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』(84)以外の全ての作品で描写されています。

しかし1作目の『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(81)と本作の講義シーンを比較してみると、そのトーンは明らかに異なるんです。

レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(81)では活気あふれる雰囲気で、生徒たちはインディに熱い視線を送り熱心に講義を聞いており、若さからくるエネルギッシュさを感じさせてくれます。

一方で本作は、誰も講義の内容やインディに興味がなく、生徒とインディとの間に距離があることからも、インディが時代に取り残されていることを彷彿とさせています。

このシーンの対比は42年という時間の流れによって醸成されたもので、誰にでも起こり得る普遍的なものだと思います。故に”哀愁”を感じることができるんですね。

さらにマリオンとの離婚と、息子の死を知った後のシーンで隣の家のラジオから流れてくる曲は、僕の記憶が正しければデヴィット・ボウイの『スペース・オデッセイ』か、エルトン・ジョンの『ロケットマン』だったかと思います。

時代背景はアポロ計画の真っ只中で、米ソで宇宙開発競争をしていた時代なので、これらの曲がラジオから流れてくるのは至極自然なわけですが、どちらの曲も宇宙ではたった一人の宇宙飛行士をメタファーに寂しさを歌った曲なんです。

つまり一人になってしまったインディアナ・ジョーンズの寂しさを表したメタファーにもなっているんですね。

オレンチ
オレンチ

流れている曲の記憶が定かではないので、適当なことを言っていたらごめんなさい!

前半では宇宙開発競争について積極的に取り上げられていましたが、宇宙開発競争そのものが次の時代を象徴するものであり、インディの考古学とは対極を感じることができますよね。

極め付けがサラーとの会話で「冒険の日々は終わった」というセリフが哀愁というテーマを強く刺激していると思います。

哀愁とは一体何か

ここまで”哀愁”について肯定的に述べてきましたが、哀愁とは一体どういう意味でしょうか。なぜ哀愁が良いのでしょうか。

哀愁をGoogleで調べてみると、以下のような説明がされています。

哀愁

寂しくもの悲しい気持ち。もの悲しさ。

goo辞書より引用

これだけだと、なんだかとてもネガティブな意味に感じてしまいますよね。

しかし哀愁をうまく物語の中に組み込むことができると、人物の人生・歴史を感じることができるんです。

哀愁からくる寂しさというのは、輝いていた時代があった裏返しで、歳月を感じさせます。歳月というのは人生であり歴史です。人の歴史はその人の個性そのものであり、個性はその人の魅力となります。つまり本作のような作品から感じる”哀愁”とは、その人の魅力を醸成したものであると僕は考えます。

寂しさという感情からここまで想いが広がるわけなので、哀愁というのは時に物語に多大な貢献をするんです。

コップランド』や『3時10分、決断のとき』のように、上手に作劇すれば1作品の中で上記のような哀愁を作り出すことも可能です。

本作のように長く続くシリーズでは、実時間がそのまま哀愁を醸成してくれるので、やはり味わい深さが違いますし、ともすると観客の人生さえ影響を与えるはず。

その究極が『ローガン』という作品だと思います。

オレンチ
オレンチ

だから僕は『ローガン』という作品が大好きです。

ただし寂しさだけで終わらせないのが映画です。哀愁の時期に入った主人公へ再び輝きを与えることで感動はより強いものになると思います。この感動のギャップこそ、物語に哀愁を作り出す意味だと思います。

本作で言えば、タイムスリップによって歴史を目撃する瞬間。

歴史に人生を捧げた男にとって、歴史を目撃するという体験は最高のご褒美だったのではないでしょうか。

もしインディアナ・ジョーンズという人物が本当に存在して、引退する彼に何をプレゼントをすれば一番喜んでもらえるのか、しっかりと熟考されたクライマックスだったと思います。

オレンチ
オレンチ

もはや映画という媒体からインディアナ・ジョーンズへのプレゼントですよね。

さらにマリオンとの反復も個人的には大きな感動を受けました。

同じ映画やシリーズの中で前のシーンと似たようなシーンを意図的に作ることを反復と呼んだりしますが、反復には別の意味やその先の解釈、もしくは同じ意味だが攻守が異なるなど、様々な効果をもたらします。

本作ラストの「痛まないところはどこかロマンス」は『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(81)からの反復です。

シーンの意味は同じですが、攻守が異なっていますよね。余計なセリフで語らなくても二人の関係が再び元に戻ったことが理解できる素晴らしい反復だったと思います。

さて哀愁についてここまで語ってきましたが、本作のような長寿シリーズだと若くエネルギッシュな姿を何度でも味わえるというのも映画の素晴らしいところですよね。

自分に影響を与えた映画というのは想いのタイムカプセルのようなもので、何年か後にタイムカプセルを開けることで再びその時の想いを蘇らせてくれる力があると思います。インディ・ジョーンズというシリーズにはそんな力があるのではないでしょうか。

ジェームズ・マンゴールド味で失われたもの

先ほど「スティーヴン・スピルバーグからジェームズ・マンゴールドになってから失われたものがある」と述べましたが、なにかと言えば第一にコメディ感ですね。

インディ・ジョーンズというシリーズはコメディ的な要素を多く含んだシリーズで、インディアナのヒロイックな面とトラブルをバタバタと回避する姿のギャップが非常に面白かったのですが、本作ではコメディ要素がとても薄まっていた気がします。

エルンスト・ゴンブリッチ著『美術の物語』を呼んでいた時に目から鱗だったのですが、「アーティストは過去の作品よりも斬新なものを作ろうとし、新しい価値を作り上げてきたが、それと同時に失われたものも存在することを忘れてはならない」的なことが書かれていたんです。

これまで新しさにばかり注目していましたが、それと引き換えに失われたものがあることについては完全に盲目でした。

重要なのは失ったものは必要な選択だったかという点だと思います。

コメディの要素で言えば必要な選択だったと言えるでしょう。哀愁の雰囲気を作り出している中で、コメディとの共存は難しすぎますよね。

それよりも問題なのは第二のインディ・ジョーンズシリーズ独特のグロさが失われたことで、こちらは残して欲しかったと思ってしまいます。

スティーヴン・スピルバーグはアリの巣を水責めして壊滅させるような子供心の中に潜む残酷さをインディ・ジョーンズシリーズにぶつけていたと僕は感じています。

例えばゲテモノ料理で悪ふざけをしてみたり、軍隊アリに生きたままの人を食べさせてみたり、悪漢の顔を溶かしてみたり、ヒロインに大量の虫を浴びせてみたり、etc。

もしスティーヴン・スピルバーグが本作の監督を務めていたのなら、タイムスリップした先で、ボイド・ホフブルックあたりがとても残酷な殺され方をしていたことでしょう。

作家性のゲシュタルト崩壊

「手放しでは喜べない部分がある」とも言いましたが、簡単に言えば大衆ウケを狙ったエンターテイメント感が垣間見える点です。

『インディ・ジョーンズ』シリーズの特徴をまとめた記事でも語りましたが、『インディ・ジョーンズ』というシリーズは90年代ごろから多くなる、大味のアクションや大爆発が魅力な「これぞハリウッド映画」的な流れに貢献したシリーズなわけなので、こちらの方向を目指す意味もわかります。

またジェームズ・マンゴールドは『ニューヨークの恋人』や『ナイト&デイ』のようなザ・ハリウッド映画的な作品も手掛けているので作家性に合わないわけではありません。

ただし少なくともこれまでの作品は、哀愁なら哀愁一筋。これぞハリウッド映画的な作品ならそちらに一直線だったんです。作家性のゲシュタルト崩壊とでもいうべきか、哀愁的映画とザ・ハリウッド的映画がぶつかり合いが起こり映画の良さを邪魔してしまっているように感じます。

そのため時を越えれるという、とても相性の良い主題を持っていながら、息子の死という清算しきれていない葛藤を浄化するまでに至らず物語が閉じてしまっていました。これは本当に致命的だと思います。

ただ前述したようにジェームズ・マンゴールドのこれまでの作品を見る限り、本作のようなぶつかり合いは起きていないので、そうなると勘繰ってしまうのは世界一大きな映画スタジオによる影響ですよね。

個人的にはまるで『フォード vs フェラーリ』におけるフォード社の役員とシェルビーのような関係があったのではないかと思ってしまいます。推測でしかありませんが、ジェームズ・マンゴールドがやりたいようにやっていれば、もっともっと良い作品ができたのではないかと思ってなりません。

最後に余談ですが、冒頭でロンギヌスの槍が登場しますよね。ロンギヌスの槍とは十字架に磔にされたイエスを突き刺した槍のことで、聖書を彷彿とさせるアイテムです。

『インディ・ジョーンズ』シリーズと聖書は関係が深く、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(81)と『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』は聖書をテーマに描かれた物語です。

これを冒頭に登場させることで往年のファンに「お。今度も聖書の話か?」と思わせておき、実はロンギヌスの槍は偽物で、アンティキティラの機械こそ主題だということを示します。

往年のファンを少し揺さぶった粋な演出だったと思います。

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