はじめまして!オレンチと申します。
今回は2023年に公開されたジェームズ・ガン監督の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー Vol.3』についてお話ししていこうと思います。
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー Vol.3』はマーベル・シネマティック・ユニバース(以下、MCU)のフェーズ5に属する作品で、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズとしては3作目、MCU作品としては実に32作目となります。
ナンバリングが実にややこしい本作ですが、要するに『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズの完結編です。
というわけで早速ですが本題へと進んでいきましょう!
目次
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー Vol.3』のネタバレ感想・解説・考察
10年間の自伝
1作目の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』が2014年に公開されてから約10年、ついにここまでやってきてしまいました。
この1作目がきっかけで、主演のクリス・プラットや監督のジェームズ・ガンなど、本作に携わった人々の人生を変えたことは言うまでもなく、クリス・プラットは本作がきっかけで世界的なスターとなり、ジェームズ・ガンも有名監督の仲間入りを果たしました。
本作を含め『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズは繰り返し”家族”をテーマに描いてきたわけですが、シリーズ3作を大きく1つの作品として俯瞰して観てみると、もはや”自伝”といって過言はない気がします。
というのも『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』では<出会い>を描き、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー Vol.2』では<壊れることのない友情>を、そして『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー Vol.3』では<巣立ち>を描いているように感じるからです。
本シリーズに携わった何名かの人々は本シリーズで出会い、10年の月日を経て友情を育み、トリロジーとしては終幕を宣言していることから本作のラストは、現実世界での彼らの関係ともリンクしていると思います。
さらに『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズが提示する家族はただの家族ではなく、血の繋がっていない──言ってみればただの他人でした。そんなことから家族の絆に血は関係ないということを信念にしています。
この信念はジェームズ・ガンの関わってきた作品を1つ1つ旅していけば明らかで、特にヨンドゥ役のマイケル・ルーカーは一緒にヨーロッパ旅行に出かけるほどの仲の良さ。ガンの作品には必ず出演しています。
本作『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー Vol.3』にも、どういった形にせよ必ず出演すると確信していましたが、その予想は見事的中!しかも最高の形で出演していましたね!
本シリーズがジェームズ・ガンたちの自伝だ──、ということを裏付けるエピソードが『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー Vol.2』の音声解説に収録されています。
それというのが『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の公開直前、ジェームズ・ガン、クリス・プラット、デイヴ・バウティスタはポッドキャストに出演するため、アップルストアの舞台裏にいたそうです。
1作目の公開前ということで、この3名はお世辞にも売れていると言える状況ではなかったと思います。その舞台で3人は「何か凄いことが起きそうだ。『ガーディアンズ』はただの映画じゃない。多分僕らの人生を変える」と思ったそう。
彼らの身に何が起きたのかは前述通り。
ポットキャストの舞台に上がる直前3人は「約束だ。今のままの僕らでいよう。しっかり地に足をつけて友情を最優先し、誠実に生きていこう。」と誓い合ったそうです。
その約束通り彼らは地に足をつけ、一歩一歩確実にあゆみを進め今回の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー Vol.3』までたどり着いたわけです。
途中、ジェームズ・ガンの解雇騒動もありましたが、その騒動さえも今となっては彼らの友情を裏付けるイベントに過ぎなかったのかもしれませんね。
つまり『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズは舞台をスペースオペラに移しただけで、ハートフルな真実のドラマだったというわけです。自伝に勝るドラマはないですね。
本作もありのままを受け入れたロケット・ラクーンの決断に感化され、ガーディアンズのメンバーたちは別々の道を歩むことを決意します。まるで三部作として終幕を迎え、それぞれの方向へと進み出すキャストやスタッフのようだと僕は思います。
このように監督や脚本を書いた人物の自伝のようになっっている物語は魅力あふれる作品になることが多いです。
なぜならショットの一つ一つに血が通っているからで、そういう作品は作り話の域を超越しているように感じます。
なぜショットの一つ一つ血が通うのかと言えば、フィルムメーカーの内的な文脈が物語に溶け込んでいるからで、内的な文脈とはその人の経験のことです。
いわば人生の投影になるんです。
長い時間をかけて醸成された体験や葛藤が刻まれる物語なので、放つ魅力はより強いものになります。
僕の知っている限り、本作と同じように血の通った作品が1つあります。
それがシルヴェスター・スタローン主演の『ロッキー』です。
『ロッキー』はシルヴェスター・スタローンの俳優という職業をボクサーに変えただけで、スタローンのほぼ”自伝映画”としてよく知られています。
そんなスタローンが本作に出演しているのもなんだか因果を感じてしまいますw
さて本作は家族というテーマを僕らファンにまで手を差し伸べてくれています。
それというのが、本作の終盤でグルートがついに人間の言葉を話しますよね。しかし、このシーンにはある違和感が存在します。驚くのは観客だけで、スクリーンの中にいる人物は誰一人として驚いていないんです。
これは僕らファンが家族として迎えられたことを意味し、グルートが人間の言葉を話したではなく、僕らファンがグルートの言葉を理解できるようになったということでしょう。
クレジットのSpecialThanksに刻まれた「All Fans」という言葉からも感じ取ることができました。
さらに本作のラストには涙なしでは語れない、ジェームズ・ガンの自伝を体現するエピソードが隠されていました。本作のラストで『Dog Days Are Over』に乗せて最初に踊り出すのはグルートですが、このグルートを演じたのはジェームズ・ガン本人なのです。
そしてグルートの踊りに釣られて踊り出すのはロケット。そんなロケットの動きを常に演じてきたのが、何を隠そうジェームズ・ガンの弟であり俳優、そしてクラグリン役のシェーン・ガンなんですね。
ガン兄弟は子供の頃から映画作りに憧れ、ごっこ遊びをしていたそうです。
つまりガン兄弟の映画作りはごっこ遊びの延長線上にあるんですね。踊り出す二人の姿を想像すると、少年時代の彼らの姿まで目の前に現れてくるかのようで、そんな二人の姿を祝福するかのように大勢の人々もまた一緒に踊り出すのです。
このシーンもまた、ガン兄弟を祝福する『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズに関わった全ての人のように見えてきます。
そんな一面を切り取り、ノーウェアからお届けしたのが本作のラストだったのでした。
ロケット・ラクーンの物語とキャラクターアーク
これまで自分がアライグマ(ラクーン)だという事実を否定し続けてきたロケットでしたが、過去と向き合い自分の出土を知ったことで、ありのままを受け入れる姿は感慨深いものがありましたね。
さらにロケットが周りを見渡すと、自分の種とは関係のない動物たちが捉えられていることを目の当たりにし、ロケットは彼らを救う決断をします。これまでの10年でロケットは親密な関係にある仲間にのみ助けの手を差し伸べており、他人同然くらいの人物には非情な態度を貫いてきたキャラクターでした。
このロケットのキャラクターについてはジェームズ・ガンの明確なポリシーがあって、1作目を監督することを承諾する条件にもなっていたようです。
なぜなら1作目を監督する時点で本作のような結末に目を向けていたからで、そんな片鱗は1作目と2作目でも垣間見ることができます。
例えば1作目で刑務所に入れられる際、暗い過去が隠されていることを示唆するかのようなロケットの背中を写したショットが印象的でしたし、同シーンの解説では本作(『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー Vol.3』)を予見するかのようなコメントをジェームズ・ガン自身が残しています。
動物たちを救出する経緯は、そんなロケットが前述通りありのままを受け入れたことで、初めてヒロイックな行動を起こすことができた瞬間だったわけです。ともするとシリーズを通して、ロケットのオリジンを描いていたのかもしれません。
故に初めて自分のことを「ロケット・ラクーン」と呼称するわけです。
そう思うとライラの「実はあなたの物語」というセリフはメタフィクションで、観客に向けられたものにも感じます。
ちなみにロケットが義手を欲しがる理由も彼の過去が関係していたようで、純粋だった頃の友を彷彿させていたのでしょう。
ジェームズ・ガン曰く「アライグマが自分をアライグマと認めることを描いたシリーズ」だそうw
本作のロケットのように物語を通じて起きる内的な変化のことをキャラクターアークと呼びます。
キャラクターアークとは物語中に登場人物の心の変化を円弧状に表現したもので、この線の変化が大きく、また共感できるものであればあるほど、登場人物に魅力を感じることができます。
上記の『トイ・ストーリー』におけるウッディの例がわかりやすいですね。
もちろんロケットの変化は魅力あふれるものでしたが、他のメンバーもなおざりにしないのがこのシリーズの愛すべき理由かなと思います。
ヴィランとして登場したネヴュラは今やガーディアンズの一員となり、子供たちを守るためノーウェアに残る決断をします。
自分の人生を生きてこなかったマンティスはガーディアンズを離れ自分探しの旅へ。破壊者(デストロイヤー)の異名を持っていたドラックスは誰よりも父親らしい自分を取り戻し、ガモーラは皆と信頼関係を気付きつつも新しい家族であるラヴェジャーズの元へと戻っていきます。
そしてピーターもロケットと同じく、これまで避けてきた故郷へと戻っていくのです。
それぞれのメンバーにそれぞれのキャラクターアークがあり、円弧の形も異なります。故に彼らは凸凹であり、彼らが支え合う姿が尊いのですね。
ダンスをやらない人種だったドラックスが、心の底から楽しそうにダンスを踊る姿に感動しますよね!
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズは10年続いたシリーズです。ジェームズ・ガンは「人生が人格を形成する」とコメントしており、10年の中で丁寧に彼らの人柄が形成されていく様を描いてきたというわけです。
現実の時間がそのまま映画の味わい深さにつながるような現象を究極の役作りと僕は呼んだりしていますが、まさに究極の役作りを見せつけた一例だと思います。
ちなみに僕も勘違いしていたのですが、グルートは1作目のグルートとは別個体で、シリーズを通して心身ともに成長をしてきたキャラクターなんですね。
つまりグルートはまさにジェームズ・ガンのコメントの通り「人生が人格を形成する」ということを体現したキャラクターなのです。
グルートはメンバーのことを親のように思っており、同時に親目線でグルートを見ているファンも多いのではないでしょうか?
Vol.2のベイビー・グルートが3歳くらいの設定で、ちょうど我が子が3歳の頃だったので、とても身近に感じられたことを覚えてますw
そんなグルートのセリフで旧ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーが締め括られるのだから、とっても粋な終幕でした。
映画音楽の重要性
さてジェームズ・ガンといえば選曲のセンスの良さが光りますよね。
そんな彼の映画音楽へのこだわりは異例で、本シリーズにおいてはまず曲を決めてから脚本を書くと言います。(『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー Vol.2』の特典映像から引用)
例えば『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー Vol.2』の冒頭に使われたElectric Light Orchestraの『Mr.Bule Sky』の和訳を見てください。
ミスターブルーあなたはよくやった!
でもね、ミスターナイトがすぐに来るよ
忍び足でやってくるよ
彼の手は君の方に掛かってる
君の事は絶対に忘れないよ!
教えてよミスターブルースカイ
なぜあなたは遠くへ長いこと行っていたの
僕達の何が悪かったの?
ねぇ、ミスターブルー
僕達はあなたと一緒にいてすごく嬉しい
君がしたことをみてごらん
みんなが君のおかげで笑顔さ
洋楽を和訳していくブログ様より引用
どうですか?『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー Vol.2』のヨンドゥのことについて歌っているような気がしてきませんか?
さらにFleetwood Macの『The Chain』はグループ内のいざこざによって解散の危機に瀕していましたが、「どんなことがあっても友情だけは切れない」ということを歌った曲です。
この曲が『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー Vol.2』で流れるタイミングは2つあり、それというのがガーディアンズが仲違いしてバラバラの道を進むシーンと、再び全員が共に戦うことを選んだシーンで使われています。
要するに『The Chain』と言う曲が誕生した経緯に物語がシンクロしているわけです。
上記の『Mr.Bule Sky』が『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー Vol.2』の全体像を予見していたように、物語と楽曲がシンクロするように選曲されているんですね。
もちろん本作もそのスタイルは貫いており、冒頭で流れるRadioheadの『Creep』がロケットの葛藤を歌っていることは明らかですね。
歌詞に字幕をつけたのは英断でした!
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー Vol.3』の『Creep』は、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー Vol.2』における『Mr.Bule Sky』であり、反復のような効果を生んでいる気がします。反復とは同じ映画の中やシリーズの中で、似たような演出やシーンを作り出すことで言い、シーンや演出の意図をより強くしたりするなどの効果を生みます。
この場合は「冒頭の曲は核となるテーマの暗喩である」という反復に感じられます。
個人的な感想ですが「色違いのセット」みたいな感覚を覚えて嬉しい気持ちになります。
あと2曲特筆したい曲があって、その一つがAlice Cooperの『I’m Always Chasing Rainbows』です。
この曲の歌詞を聞くとカウンターアースの実情を表現しているように聞こえますが、ジェームズ・ガン本人としても思い入れの強い曲だったようで、そんな思いからも挿入された曲だったのです。
『I’m Always Chasing Rainbows』は幸せとは言えない現状を歌いつつも、その先には希望があるということを歌った曲で少年時代のジェームズ・ガンを勇気付けてくれる一曲でした。
幸せとは言えない現状は画面に映し出されているカウンターアースの現状とリンクしますし、その先には希望についてはロケットを救う手段が目前に迫っていることにも感じられます。
ちなみにカウンターアースではMCU初のFワードが飛び出しますw
もう一つは終盤に流れたFlorence and The Machineの『Dog Days Are Over』です。
この曲も和訳を一部抜粋すると、
だってトンネルは抜けたんだ
失意の日々はもう終わり
聞こえるよね?幸せという名の馬の蹄が
やっとこの日が来たんだから
親のため全力で追いかけろ
子どもだって,きょうだいだって
そうしてくれるのを願ってる
好きだったとか,憧れてたとか,そんなの忘れて構わないから
なりふりかまわず突っ走れ
ここで終わりたくなかったら,そんなものは放っておくんだ
だってトンネルは抜けたんだ
失意の日々はもう終わり
聞こえるよね?幸せという名の馬の蹄が
やっとこの日が来たんだから
およげ!対訳くん様より引用
なんとなく新たな旅立ちを後押ししてくれてるように聞こえてこないでしょうか?シリーズを通してガーディアンズたちがやり残したことを後押ししているように僕には聞こえます。映画は終わっても物語が続く映画が僕は大好きです。
ともすると『Creep』のアンサーが『Dog Days Are Over』のようにも聞こえてきますね。
つまり彼の選曲は、アーティストのアルバムにストーリーがあるのと同じように、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』というストーリーを語るプレイリストのように機能しているんです。
まさにガーディアンズのためのアルバム。だからこそVol.2とVol.3というナンバリングがされているんですね。
こういう映画を”プレイリストムービー”なんて言ったりしますが、歌詞の内容を知ってから見るとその面白さは何万倍も上がると思います。
僕は英語力が非常に弱いので、和訳サイトを見漁り、2度目を見るのがとても楽しみです!
劇伴についてもこだわりがあり、脚本ができたらすぐに作曲家(本シリーズで言えばマイケル・ジアッキーノ)に渡し、撮影が始まる前までに作ってもらうと言います。
というのも映画音楽というのは、撮影して編集が終わってから初めて作られることの方が普通で、俳優は映画が出来上がって初めて知ることの方が多いんだとか。
ガンの場合、先に作った劇伴をその音楽が流れる場面の撮影時に実際に再生しながら演技をしてもらうことで、俳優がより完成をイメージしやすいようにしているのでした。
ちなみに本作のプレイリストの選曲はヨンドゥによるものなので、時代がバラバラなんだとか。
ジェームズ・ガン味とオマージュ
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー Vol.2』、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー Vol.3』とMCUでキャリアを積んできたジェームズ・ガンですが、ここに来てついにジェームズ・ガンらしさを爆発させたという印象を受けました。
その最もたる理由は、本作でも一際異質だった宇宙空間に浮かぶ有機物の宇宙ステーションです。何から何までグロテスクなビジュアルに拘った宇宙ステーション。わざわざ人肌に似せて作り、君の悪い色の体液が宇宙を漂う中でバカみたいな会話を繰り広げているあたり、ジェームズ・ガンが育ってきた畑を感じざるを得ません。
というのもジェームズ・ガンは元々トロマ・エンターテインメントという低予算映画の総本山のような映画製作会社出身なんです。その代表とも言えるのが『悪魔の毒々モンスター』で、ジェームズ・ガンが監督を務めたHBOの傑作ドラマ『ピースメイカー』には毒々モンスターの等身大パネルが表示されていたりします。
人肌感がぶよぶよとしている気持ち悪さは、ジェームズ・ガンの初期作『スリザー』と似ているかもしれません。
『スリザー』でいじられまくっているマイケル・ルーカーが最高なのでぜひw
スペースオペラでオルご・スコープのような宇宙ステーションは見たことがなく、スペースオペラとトロマの合作とでも言ったところでしょうか。今思えば巨人の頭蓋骨(『エターナルズ』に登場するセレスティアルズの頭蓋骨との噂)に住んでいるっていう件もかなり異質でしたよね。
いずれにしてもジェームズ・ガンじゃ無ければ、あんなにヘンテコでグロテスクで魅力あふれる宇宙ステーションは作ることができなかったでしょう。
ちなみに有機物宇宙ステーションのオペレーターとして出演していたのがジェームズ・ガンの奥さんで『ピースメイカー』にも出演していたジェニファー・ホランドで、ミートテックを着てガーディアンズを追い回した隊長が『スリザー』で主演だったネイサン・フィリオンです。このようなちょっとした出演にも人望が見て取れますよね。
『スリザー』の主役が『スリザー』みたいな宇宙ステーションで『スリザー』みたいな宇宙服を着ている韻の踏み方がまた面白いですねw
もう一点ジェームズ・ガン味を感じたのはカラフルな絵作りですね。
ジェームズ・ガンの作品はどれもビビットでカラフルな絵作りにこだわりを持っているような気がして、特に『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーVol.2』あたりからその演出は顕著になっていきます。例えば『ザ・スーサイド・スクワッド”極”悪党、集結』でも顕著に現れていましたよね。
本作でも宇宙服がカラフルだったりと随所にカラフルな演出が見て取れます。
宇宙服がカラフルなのはSF映画にゲームチェンジャー的な影響を与えたスタンリー・キューブリックの傑作『2001年宇宙の旅』のオマージュですね。
カラフルでビビットな色作りについてどんな効果を狙っているか、正確なところまで考察することはできませんが、一つ思うのは前述したグロテスクで暗いオブジェクトと相殺してくれているような気がします。
だから映画を見終わった後で気持ち悪さを感じないのかなと。他にもカラフルというだけで目を引く効果があって、数年前『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーVol.2』に釘付けだった一歳の我が子を思い出します。
もう一つオマージュ的な部分を抜粋するならば、グルートが首だけで歩くシーンはジョン・カーペンターの『遊星からの物体X』のオマージュに見えてきます。
『遊星からの物体X』の一場面ですが、上記のようなヘンテコなグロさはジョン・カーペンターの得意とするところで同監督の『マウス・オブ・マッドネス』などでも見ることができます。
グルートの画像と比較すると、影響を受けていることは明らかですよね。
またグルートの”KAIJU Form”も特撮好きのガン趣味が前のめりに出てよかったですね。
最後はみんなでブチのめす
さて本作のヴィランについても触れておきましょう。本作のヴィランはハイ・エボリューショナリーという名前で、演じるのは『ピースメイカー』にも出演していたチュクウディ・イウジ。
ここ最近のヴィランの中では群を抜いて救いようの無い自己中心的で陶酔型な狂気のマッドサイエンティストでした。
それでいて富と権力、パワーを持つ人物でしたよね。彼はロケットの生みの親で、ロケットのトラウマの元凶。命をいたずらに弄び、自分を神と勘違いしている男。
要するにブチのめし甲斐のある相手ということです。相手にとって不足なし。
心底はらわたが煮えくり返るほど嫌悪感を抱くキャラクターだからこそ、ガーディアンズたちが一つになって立ち上がる瞬間がよりエモーショナルなものになります。
つまり最低最悪な悪役だからこそ、最高最強な引き立て役なんですよね。僕は新たなMCUを代表するヴィランが登場したと思っています。そういう意味では『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズで最も魅力があふれるヴィランだったかもしれません。
そんなハイ・エボリューショナリーを葬る最後の攻撃は誰かの一撃ではなく、メンバー全員の流れるような一撃。
これをできなかったのが1作目の『アベンジャーズ』で、同作では最後の最後でアイアンマンに託してしまいました。
全員が全力で再起不能になるまでぶちのめす。これぞカタルシスでした。
メイキング映画が見たい
ここまで語ってきた通り、舞台裏も様々なハートフルなエピソードが詰まったシリーズだったので、個人的には是非是非『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の制作秘話を描いた──、ジェームズ・ガンを主人公にした映画が見てみたいです。
ちょうどスティーヴン・スピルバーグにおける『フェイブルマンズ』のような映画が見たい!
何はともあれ、ひとまずお疲れ様でした。
ダヴァイ!”ファッキン”ガーディアンズオブギャラクシー!
『ピースメイカー』に倣って(反復)、『スターロード』というタイトルのドラマがスタートする気がしてなりませんw