オレンチ
はじめまして。オレンチと申します。
今回はインスタでフォロワー様にご紹介いただいた『ネクロマンティック』についてお話ししていこうと思います。
見ない予定の映画はないのですが、自分ではおそらく辿り着けなかった作品なので、今回みたいな情報交換は本当にありがたい!
というわけで早速、以下目次から行ってみよう!
この記事はネタバレを含みます。未鑑賞の方はご注意ください。
『ネクロマンティック』のネタバレ感想・解説・考察
サイコパスが撮ったサイコパス映画
サイコパスを描いた作品は星の数ほど作られていますよね。たとえば最も有名な作品を挙げるならアルフレッド・ヒッチコックの『サイコ』ですね。
『サイコ』は誰もが知ってる悲鳴のシーンに信憑性を持たせるため本気で女優を追い込んだという有名すぎる話がありますが、あれは観客に効率よくスリルを味わってもらうために試行錯誤を重ねた結果のアプローチ。なので恐怖のどん底に落とされた女優からしたら傍迷惑で異常な被害のようなものですが、ヒッチコックの行動はサイコパスには分類されない気がします。
本作にはヒッチコックのアプローチのようなスリルやサスペンスはほぼ皆無で、淡々とネクロフィリア(屍姦症)を極めたカップルの日常を淡々と描いていますよね。
そもそも同じサイコパスを描いた作品でも、ヒッチコックの『サイコ』はハイコンセプトと呼ばれる映画のジャンルに分類され、本作『ネクロマンティック』はソフトストーリーという映画のジャンルに分類されるかなと思います。
ハイコンセプトとソフトストーリーの違いについては『ザ・ライダー』評の中で詳しく解説しているので、ぜひそちらをご覧いただきたいのですが、ざっくり言うとハイコンセプトは大衆向け映画でソフトストーリーは特定のターゲットに絞った芸術映画です。
【解説】『ザ・ライダー』|ネタバレ感想・伏線・考察など|復帰しようとする全てのスポーツマンへ
ソフトストーリーというのは、監督や脚本を執筆した自身の経験が元になっていたり、特定の人々に刺さる強いメッセージ性を帯びた作品になることが多いです。
本作の場合、言わずもがなネクロフィリアについて。この先は個人的な考察の粋を出ることができませんが、僕は監督であるユルグ・ブットゲライトの本能的なものが映画の中に込められているように感じるんです。
というわけで次の節からは、なぜ僕が監督の本能的なものを感じたのかについてつづっていこうと思います。
ネクロフィリアは死体と同一化し・た・い、のか
監督(もしくは脚本)自身の実体験や夢(もしくは悪夢)、その当時の感情などを映画化したものは数多に存在します。例えばデイヴィッド・リンチの『イレイザー・ヘッド』は、当時かなりのモテ男だったリンチがある女性を妊娠させてしまい、まだ父親になりたくない想いを投影した作品だという有名な話があります。
リンチの件はなんとも無責任な話ですが、本作『ネクロマンティック』には似たようなものを感じるんです。
もちろん本作の関係者が屍姦をしたり、殺人を犯したというわけではないのですが、少なくとも作劇に関わった割と重要な人物の誰かはネクロフィリアに関して身近な何かを持っているように思えます。
そうでもしなければ、「変な病気になりそう・・・。」と心配の絶えない、水で腐った死体を交えた3Pセックスを恍惚に描けないですよね。さらに生き血の浴槽で体を温めるなど随所に日常×サイコパスが見て取れますよね。また爽やかな劇伴が「これが普通ですけど何か?」とでも言っているかのようですよね。
そもそも本作のファーストカットは女性が立ちションをするシーンから始まるので「これは癖についての物語」と言っているような気もしますよね。『RAW 少女のめざめ』でも女性の立ちションシーンがありましたが、<女性が立ちション>という至極アブノーマルなシチュエーションには背徳感の中に秘められた快感を見出すことができそうですよね。
とりわけ本作の場合、尿意を我慢しきれなくなった後の苦肉の策が立ちションだったわけで背徳感と開放感はかなり近い濃度で共存しているでしょう。
そんな中で僕が最も気になったは、主人公?のロベルトが見るとある夢についてです。
この夢は物語の後半、ベティが家から出て行ってしまった後に見ることになるのですが、中でも注目したいのはロベルト自身が半分死体のようになっているという点です。精神分析の創始者とも呼ばれるジークムント・フロイトの<夢分析>によれば夢というものは、日頃の欲望が圧縮されたものであり、見えている部分の8倍ほどの意味を持っているとされています。
ネクロフィリアな志向を持つ夢の主が、半分死体になっている姿を見た僕は「ひょっとしたら彼にとって死体と同化すること自体が最高のオーガズムなのでは?」と考えるようになります。
本作の結末を見てもらえれば共感してもらえるかもしれませんが、その考えはかなり近いレベルで正解に近かったように思えます。
なぜなら本作のラストは自分をナイフで刺しながら勃起し、息絶えていく中で射精していきますよね。白い射精が赤い血に変わっていく流れがなんとも本作らしさを表しているように思えました。
前景によって理解を助ける構図
最後は本作のちょっと映画技法的な構図について語ってみようと思います。
映画には様々なショットで前景があります。前景とは被写体(ピントのあっている物・人物)の前に配置される物や人物のこと。映画や写真、絵画などの前景をルプソワールと呼んだりもするんですが、前景があることで被写体に視線が導かれ、より自然に何を見ればよいのか理解しやすいようになっています。
さらに前景・被写体・背景という三層構造にすることで、ショットに奥行きを生み出す効果もあります。
そもそも普段写真や動画を撮るとき、前景はできる限り排除しますよね。そう考えると映画の前景は必ず意図されたものだということがわかります。
そんな前景ですが、ときに前述した効果の枠を飛び越え作品のメッセージや物語の理解を助けるように計算されたものも存在します。
例えば『羊たちの沈黙』では檻の中にいるレクター博士と檻の外にいるクラリスとの会話シーンが多いですが、レクター博士を正面から写したショットには鉄格子の前景がなく、クラリスを写したリバースショットには鉄格子の前景が配置されたシーンがあるんです。これは精神面ではレクター博士が優位に立っているということを表しているように思えます。
またクリストファー・ノーラン監督の『テネット』では、柵ごしに横移動しながら被写体を撮ることでフィルムのような見え方ができるようになっています。
本来映画とは、「始まりから終わりまで一方通行にフィルムを走らせる行為」なんですが、それを逆回転させれば作られた映像は《逆行》するんですよね。
要するに『テネット』という作品のテーマとフィルムをかけた粋な演出というわけです。
そんな意味を持たせることもできる前景(ルプソワール)ですが、本作『ネクロマンティック』でも同様の効果をもたらせれているショットがあります。
そのショットというのが、ロベルトが初めて家に帰ってくるシーンの中にありました。ロベルトが初めて家に帰ってくるシーンの中に、ホルマリンなのかも怪しい瓶の中に様々な臓器が棚に飾られているショットがありますよね。そのショットの一つに瓶詰めされた臓器を前景にし、画面の中心にロベルトを持ってきているショットがあるんです。
このショットは新たにゲットした瓶詰めされた臓器を棚に置くことで終わる、1つのショットの中で前景→被写体へと移り変わる面白いショットでもあるのですが、ロベルトの趣味や性的嗜好をこと話で表現したショットだった気がします。