オレンチ
はじめまして。オレンチと申します。
今回はお話しする映画はNETFLIXで配信されているオリジナル映画『シー・ユー・イエスタデイ』です。
メガホンを取るのは個人的には本作が初見のステフォン・ブリストル。主演はこちらも初見のエダン・ダンカン=スミスとダンテ・クリッチロウです。
というわけで以下目次より早速行ってみよう!
『シー・ユー・イエスタデイ』のネタバレ感想・解説・考察
レイシズムにさらされた人々の「叫び」
ティーンエイジャーによるタイムトラベルと、ほのかに香るスチームパンクの香りによって、本作の表面にはSFジュブナイルのような印象が覆われています。
オレンチ
冒頭でBTTFのマイケル・J・フォックスにタイムトラベルを語らせるあたり、遊び心も感じられますよね。
しかし本作の核にはアメリカ合衆国におけるレイシズムの、弱者とされる人々による「叫び」が色濃く描かれているように感じます。
要するにブラック・ライブス・マターのメッセージが強い作品です。
ブラック・ライブズ・マター(英: Black Lives Matter、略称「BLM」[1])は、アフリカ系アメリカ人のコミュニティに端を発した、黒人に対する暴力や構造的な人種差別の撤廃を訴える、国際的な積極行動主義の運動である。特に白人警官による無抵抗な黒人への暴力や殺害、人種による犯罪者に対する不平等な取り扱いへの不満を訴えている
(wikipediaより)
特に「白人警官による無抵抗な黒人に対する暴力と殺害」にスポットライトを当てた作品で、随所に悲劇へ繋がる危なげな描写が見て取れます。
特に恐ろしいのは、黒人同士が集まって少し口論しているだけで白人警官が詰め寄り、威圧的な職務質問をするシーンではないでしょうか。
このシーンの効果を説明するのにとても有効なものがありまして、三宅隆太監督の映画理論に【カニと修造理論】があります。【カニと修造理論】とは『食いしん坊!万才』でとれたてのカニを食べる松岡修造を見ると、「なんて美味しそうなカニなんだろう!」と感じますよね。
しかし『ファインディング・ニモ』のような物語を想像し、家族のために出かけた父カニが人間に捕まってしまい、松岡修造に食べられてしまうシーンを目の当たりにしたら松岡修造のことを「なんて酷いやつなんだ・・・。」と思いますよね。
『シー・ユー・イエスタデイ』における白人警官による威圧的な職務質問シーンにも同じことが言え、黒人目線として見ることでアメリカ社会において、日々黒人が晒されている白人特権による理不尽性を感じることができるのです。
オレンチ
当該シーンで威圧的に詰め寄る警官に苛立ちを覚えた人は非常におおいのではないでしょうか。
このような理不尽性は日常的に行われているようで、例えばアメコミドラマの『ファルコン&ウィンター・ソルジャー』でも全く同じようなシーンが挿入されています。
また警官の威圧的な職務質問をスマホで撮影している描写も印象的でした。というのも携帯電話やスマートフォン、それに伴ったSNSの普及によって、これまで闇に葬られていた「白人警官による無抵抗な黒人に対する暴力と殺害」が浮き彫りになってきたという背景があります。
浮き彫りになった「白人警官による無抵抗な黒人に対する暴力と殺害」を映画化した代表作がライアン・クーグラー監督の『フルートベール駅で』です。
ある意味で先の警官の威圧的な職務質問シーンは布石のようにもなっており、ついに悲劇が起こってしまいます。当然、強盗を働いた二人組は擁護できないですが、アメリカ合衆国の社会システムの欠陥が、強盗のような選択肢を与えてしまっている現状も知っておかなければならない事実かなと思います。
というのも先のような「白人警官による無抵抗な黒人に対する暴力と殺害」によって不当に逮捕されてしまう黒人少年が後を立たず、アメリカ合衆国のシステムが、彼らが社会復帰できない状況を作り上げてしまっているのです。
そんなアメリカ合衆国の社会システムの欠陥を描いた作品に、本作と同じくNETFLIXオリジナル映画の『インペリアル・ドリーム』があるのでこちらも是非ご鑑賞ください。
というわけでアメリカ社会における黒人差別をテーマとなっていることから、どこまで制作としてスタッフィングされているスパイク・リーが本作の作劇に絡んでいるか定かではありませんが、やはりスパイク・リーの怒りにも似た作家性を感じることができる作品でした。
たとえばマルコムX通りをわかりやすく捉えたショットからはスパイク・リーの刻印を感じざるを得ません。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師とは対照的に、過激に公民権運動を行ったマルコムXの反省を描いたのがスパイク・リー監督の代表作『マルコムX』です。
冒頭からスパイク・リーのアメリカ合衆国に対する怒りがよくわかる演出がされています。
タイムトラベルというサブジャンルが足枷となってしまった作品
さてブラック・ライブス・マターという運動が色濃くテーマとして描かれている本作ですが、これがタイムトラベルというサブジャンルによって若干足枷になってしまっているように思うんです。
というのも本作のタイムトラベルは、社会問題とも言える悲劇がどんなに叫ぼうが良い方向へと向かわない。とうように物語へ作用していると感じるのです。
劇中で主人公の二人組は、間違いを正そうと何度も過去に戻るも、また新たな悲劇を生んでしまっていましたよね。これは毎年のように発生している「白人警官による無抵抗な黒人に対する暴力と殺害」という現実を移しているかのようです。
先述の通り、スマートフォンやSNSの普及によってこれまで闇に葬られてきた「白人警官による無抵抗な黒人に対する暴力と殺害」は表面化してきています。
たしかにかなりの率で抑止力にはなっているはずですが、今だに理不尽性を思わざるを得ない事件は後を経ちません。
オレンチ
2020年5月に起きた白人警官による黒人暴行死事件は記憶に新しいです。
そのため本作のラストは出口のない問題を立ち向かい続ける黒人女性のショットで終わっているのだと思います。
ただし本作のようなタイムトラベルものの基本的な構成は、序盤の夢と希望に溢れたタイムトラベルで行動した些細な出来事がバタフライエフェクト的に作用し、後半で発生し拡大していく障壁と強い因果関係にあることがほとんどです。
例えばタイムトラベルをテーマにしたジュブナイルSFの『プロジェクト・アルマナック』はタイムトラベルモノの基本構成を代表するような作品と言えます。
この基本構成の場合、障壁を作ってしまった原因は主人公側にあるため、主人公たちにはその障壁を乗り越える責任が生まれます。
この前半と後半の因果関係と主人公の責任との向き合い方がタイムトラベル系ジュブナイルSFの面白さの秘訣だと思うんです。
しかし本作のように社会問題をテーマにした作品の場合、物語の主人公に責任をかせることは出来ません。
オレンチ
主人公に責任をかせてしまった時点で社会問題ではなくなるからですね。
そうではなくて、主人公たちを蝕む外側からの何かを描く必要があるんですね。そのためタイムトラベルにおける前半と後半との因果関係を持たせることもできず、本作にとってタイムトラベルというサブジャンルが足枷になってしまっているように感じてしまいました。