オレンチ
はじめまして!オレンチと申します!
今回は『ヴェノム レット・ゼア・ビー・カーネイジ』について書いて行きます。
『ヴェノム レット・ゼア・ビー・カーネイジ』は2018年に公開された『ヴェノム』の続編。
監督は『ゾンビランド』などのルーベン・フライジャーから、『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズにおけるゴラムや『猿の惑星』シリーズにおけるシーザーなどのモーションアクターで有名なアンディ・サーキスに交代しました。
主演は前回から引き続きトム・ハーディが務め、新たにヴィラン役としてウディ・ハレルソンやナオミ・ハリスが参戦しています。
というわけで、以下目次から行ってみよう!
目次
『ヴェノム レット・ゼア・ビー・カーネイジ』のネタバレ感想・解説・考察
ヴェノムというキャラクターについて
そもそもヴェノムというキャラクターを改めておさらいしておくと、元々は『スパイダーマン』のグリーン・ゴブリンなどと肩を並べるスーパーヴィランとして登場したんですよね。
その凶悪な顔面さながら、凶暴な攻撃性を持って幾度となくスパイダーマンを苦しめてきたようです。
一方で圧倒的な人気からダークヒーローとしての側面も持っており、次第にコメディリリーフ的な一面を開花させていったのだとか。
初めて映画に実写としてヴェノムが登場したのは、サム・ライミ版の『スパイダーマン3』(07)。
この作品では、先ほどお話しした前者のような「凶暴な攻撃性」としてのヴェノムが映像化されています。
そこから約11年の月日を経て、スパイダーマンという要素を一切排除しコメディリリーフ的な一面を大きく前に出して登場したのが2018年に公開された前作『ヴェノム』(18)でした。
『スパイダーマン3』(07)の凶悪的ヴェノムから、『ヴェノム』(18)のコメディリリーフ的ヴェノムのコントラストは凄まじく、性格のコントラストに戸惑った人もいればギャップ萌えに好感を持った人もいたかと思います。
これが潜在意識レベルでの評価の分かれ目かなと思います。
本作『ヴェノム レット・ゼア・ビー・カーネイジ』は前作のコメディリリーフ的ヴェノムをさらに味わい深く広げた作品となっていましたね。
オレンチ
ちなみに僕は、コメディリリーフ的なヴェノムには好感派です。
ヒーロー映画三部作の構造
さて本作は”続編”という位置付け。ひいてはヒーロー映画の続編ということになりますよね。誰かが定義したわけではないですが、ヒーロー映画シリーズのほとんどは三部作で落ち着きます。
4作目が制作される場合、新章として新しく舵を切るケースがほとんどですね。
これまでのヒーロー映画を注意深く観察すると、ヒーロー映画三部作には基本的な構造が存在しており、この青写真から大きくはみ出ない限り無難な面白いとされる作品を作ることができると思います。
その上で敢えて型を破ってみたり、斬新な演出をしたりすることで他とは一線を画する作品が生まれるんですね。
オレンチ
そんな青写真に加えて、いかにヴィランを魅力的に描けるか、またヒーローとしての資質をしっかりと示せるかが魅力的なヒーロー映画となる鍵だと思います。
というわけでヒーロー映画三部作の構図を『ヴェノム』やこれまでのヒーロー映画に当てはめながら確認してみましょう。
ヒーロー映画における1作目の基本的な役割は「オリジン」です。つまり何者でもなかった者が、キッカケと困難を乗り越えて、ヒーローへと昇華していく様を1作目で描くのです。
例えば『アイアンマン』(08)では、トニー・スタークはテロリストに拉致されたことをキッカケにアークリアクターを開発し、アイアンスーツを開発することでヒーローへの道を切り開いていますよね。
前作『ヴェノム』(18)では、落ちぶれたリポーターであるエディ・ブロックは悪徳製薬会社に侵入したことをキッカケにシンビオートに寄生され、ヴェノムとの共存の道を選びます。
『ドクター・ストレンジ』(16)は、事故によって失ってしまった両腕の感覚を取り戻すためエンシェント・ワンに弟子入りしたことをキッカケに魔術師としての道をすすぬようになります。
また上記ような1作目の構成を敢えて崩すことで成功しているのが、『インクレディブル・ハルク』と『スパイダーマン:ホームカミング』です。
どちらの作品も別シリーズとして数年前に映画化されたヒーロー映画なので、彼らのオリジンについては、ほとんどの視聴者が記憶に新しい状態なんですよね。
そのためマンネリを避けるべく大胆にもオリジン省いているんです。オリジンを省くことで上映時間に余裕が生まれ、結果として力を手に入れた後の葛藤を幅広く描けるようになっていました。
逆に再度オリジンを描いて失敗してしまったのが『アメイジング・スパイダーマン』ですね。
オレンチ
僕は『アメイジング・スパイダーマン』シリーズが大好きですが・・・。
ちなみにオリジンとは“原点”のことで、主人公がヒーローとなる原点のことを指します。ヒーローのオリジンを狭義で語ると「力を手に入れたこと」となるかもしれませんが、広義では「主人公の心情がヒーローへと成長したこと」を指すと思います。
三部作における2作目の役割
ヒーローのオリジンを描いた後、つまり2作目の基本的な役割は、ヒーローとなった主人公のキャラクター性を深堀することです。
キャラ性特有の小さな葛藤エピソードを描いたり、周りの人物との意外な絡みを描くことで、ヒーローとなった後の日常を描くケースが非常に多いです。
オレンチ
先に挙げた『インクレディブル・ハルク』や『スパイダーマン:ホーム・カミング』はこちらの構成に近いです。
ようするにキャラに特化したあるあるネタや、有名人のプライベートを描いているような雰囲気が強いため、エスタブリッシング的に作品を俯瞰すると、1作目に比べて比較的テンションが緩めになります。
ちなみに3作目では主人公たちは未曾有の事態に直面します。そのため市井の人からヒーローとなるダイナミックな変化を描いた1作目や、未曾有の事態によってスケールが大きくなった3作目よりも2作目は地味なものになり、記憶に残りにくいのも特徴的と言えるでしょう。
例えば『アイアンマン2』では、アイアンマンであることを公表したトニー・スタークがアイアンスーツを身にまとい華やかに自身のエキスポに登場しますよね。この流れは非常にトニー・スタークらしいと言えるでしょう。
また『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』では、現代に復活したスティーブ・ロジャースがシールドとしてテロと戦っている日常を描いているほか、ナターシャとの関係性も深堀されていましたよね。
ただし先述の通り、有名人のプライベートを描いているような雰囲気が強いため主人公が推しの場合は3部作中最も好きな作品になることもあり得ると思います。
面白いことに3部作の構成はハリウッドにおける脚本術「三幕構成」と非常によく似ています。直接的な因果関係は証明できませんが、シリーズを一つの脚本としてロングショットでとらえていると考えると何か関係があるように思えてしかたありません。
というわけでようやく本作『ヴェノム レット・ゼア・ビー・カーネイジ』の話に入って行くのですが、先ほど『ヴェノム』(18)におけるヴェノムはコメディリリーフ的と言いました。
コメディリリーフ的こそ本作におけるヴェノムのキャラ性なので、本作はヴェノムのコメディリリーフ的側面を非常に豊かに表現しています。
本作を見て「ヴェノムが前作に増して可愛い!」と思った人も多かったのではないでしょうか。その理由にはこれまでお話してきた3部作の構成が少なからず影響していると思ってよいでしょう。
『ヴェノム レット・ゼア・ビー・カーネイジ』より引用
個人的には、コメディリリーフ的側面を豊かに描くという舵切りは大成功だと思います。僕も含めてですが、前作でヴェノムと言うキャラクターのファンになった人にとって、覗いてみたかったヴェノムとエディ・ブロックの日常が描かれていましたよね。
『ヴェノム レット・ゼア・ビー・カーネイジ』より引用
受動的なエディ・ブロック
もちろんただ主人公たちの日常を描いているだけではヒーロー映画にはなりません。というわけで物語を前に進める大きな障壁を与えることが必要不可欠になります。
基本的にこの障壁は、内的葛藤と外的葛藤の両方が主人公を襲います。
内的葛藤とは日常の中で積りに積もった小さな葛藤がやがて大きな苦悩となったものを指し、外的葛藤とは端的にヴィランを指します。
ちなみにヴィランは内的葛藤の隙を突くことで主人公を揺さぶり、物語にスリル性を与える役割と、ヴィランに打ち勝つことで主人公が内的葛藤を克服したとこを証明する2つの役割を持っています。
『アイアンマン2』ではリアクターの毒性によって自暴自棄になっているトニー・スタークをウィップラッシュが揺さぶりをかけてきます。
『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』ではシールドへの不信を感じだしたスティーブ・ロジャースに、かつての親友だったバッキー・バーンズがヴィランとしてゆさぶりをかけてきましたよね。
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー vol.2』では団結力の弱まったガーディアンズにエゴが揺さぶりをかけます。
個人的に本作『ヴェノム レット・ゼア・ビー・カーネイジ』は内的葛藤の部分がうまくいっていないように感じます。
というのはエディ・ブロックが非常に受動的なんですよ。
物語の主人公がもっともやってはいけないことは、物事に対して受動的になること。
確かにクレタスの捜査に能動的な一面はあるものの、例えばクレタスの未発見の死体を見つけるなど、物語を前に進めるキッカケを生みだしているのは全てヴェノムでした。
よくよく考えると戦っているのも全てヴェノムであり、エディの役割と言えばヴェノムの良き器というくらい。
もちろんトム・ハーディが演じるエディ・ブロックは個性があってヴェノムとの掛け合いが非常に楽しいことは確かなのですが、主人公たる資質がやはり弱いと思うのです。
そんな半面、外的葛藤──、つまり本作のヴィランであるクレタスには強い魅力を感じたので次の章ではヴィランについてお話したいと思います。
ナチュラルボーンな殺人鬼
さて本作のヴィランはヴェノムの宿敵ともいえるカーネイジ。元は『スパイダーマン』に登場するヴィランで、スパイダーマンはヴェノムの協力を得ることでやっと倒すことが出来たほど強力なヴィランだったようです。
中の人はクレタス・キャサディという連続殺人鬼で演じるのは『ゾンビランド』シリーズなどで記憶に新しいウディ・ハレルソンです。
当初(『ヴェノム』(18)のポストクレジットを見る限り)クリスタは性的欲求と殺人を紐づけるような殺人鬼だと思っていました。
オレンチ
例えば『羊たちの沈黙』におけるハンニバル・レクターや、『ザ・バニシング 消失–』におけるレイモンのような。
しかしひとたびクレタスが脱獄するとそのイメージは一変、ウディ・ハレルソンがキャスティングされたことの意図がわかり膝を打ちました。
というのはクレタスとフランシスの逃避行が、劇中ではボニー&クライドと形容されていましたが、どう見ても『ナチュラル・ボーン・キラーズ』を引用しているとしか思えなかったからです。
オレンチ
ボニー&クライドは1930年代初頭の大恐慌時代に現れた強盗殺人犯です。
『俺たちに明日はない』や『テキサス・レンジャーズ』として映画化されています。
ちなみに『テキサス・レンジャーズ』にはウディ・ハレルソンが出演しています。
『ナチュラル・ボーン・キラーズ』はウディ・ハレルソンを有名にしたような作品で、パートナーのジュリエット・ルイスと共につねにキレながら旅を続ける異色のロード・ムービーです。
さらに『ナチュラル・ボーン・キラーズ』でもこの殺人カップルは赤のオープンカー(ダッチチャージャー)に乗っており、観る人が見るとジュリエット・ルイスがナオミ・ハリスに変わっただけのようにも観えてきそうです。
『ナチュラルボーンキラーズ』より引用
恐らく本人も演じ慣れているでしょうし、観る側も見慣れているのでクレタスという役にかちっとハマっていました。これが僕がクレタスが魅力的に感じた大きな理由だと思います。
『ヴェノム レット・ゼット・ビー・カーネイジ』より引用
近年のマルチバース的概念を考える
さて本作のポストクレジットでは、非常に大きな動きがありましたよね。
そうです。トム・ホランドがピーター・パーカーを演じる『スパイダーマン』シリーズとの合流です。
つまりこれは、『ヴェノム』シリーズがMCUシリーズに合流したことを示していますよね。
アメコミファンやMCUファンにとって、何とも夢が膨らむ出来事でしたが、この出来事をマルチバースと紐づけられた人はどのくらいいたでしょうか。
おそらく殆どの人が、居場所が変わっている摩訶不思議な出来事をマルチバースと紐づけられたのではないでしょうか。
このように無意識化で紐づけられるようになった背景には、ここ数年におけるアメコミ映画の取り組みと因果関係がありそうです。
どのような取り組みかと言うと、マルチバースという概念の刷り込みです。
MCUのフェーズ3あたりから、その動きは頭角を現し『アベンジャーズ/エンドゲーム』ではエンシェント・ワンによって概念の提唱が行われ、『スパイダーマン/ファー・フロム・ホーム』ではフェイクだったにせよ物語にマルチバースが大きく身を乗り出してきています。
フェーズ4に入ってからその動きは顕著で『ロキ』や『ホワット・イフ…?』などはマルチバースそのものを描いたような作品でした。
そんな流れをとても優秀に牽引したのが『スパイダーマン:スパイダーバース』の存在です。この作品で多くの人がマルチバースという概念を知るキッカケになったかと思います。
このように近年のアメコミ映画ではマルチバースという概念が頻繁に現れ出していますよね。ただしマルチバースという概念は最近生まれたものではなく往年のコミックファンにとってはもはや常識のようなものなんだそう。
アメコミ映画がクリエイター達の予想だにしないスピードで成長を続けている昨今、今後マーベルという大きな枠で物語の信ぴょう性を担保するため、また物語に膨らみをもたせるためにはマルチバースという概念が必要不可欠になってしまっているように思うのです。
映画ファンにとっては様々なキャラクター達の合流を目の当たりにすることができる非常にうれしい流れなのですが、この流れには少々危惧すべき点もあります。
というのはシリーズを失敗するリスクが大きく減少するということです。
例えばまだ噂の粋を出ませんが『スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム』には『アメイジング・スパイダーマン』の物語が合流するように言われています。
要するに失敗してしまった『アメイジング・スパイダーマン』を救済したことになるんです。
失敗を恐れずにチャンレンジできるという大きなメリットがあるのは事実ですが、それが裏目にでることで作品の質が下がるようなことが無いことを祈るばかりです。
またマーベルが映画ファンの階層にマルチバースの概念を刷り込んだことでDCユニバースにも新たな光が差されることを期待する声もあります。
ひょっとしたら『ジャスティス・リーグ/スナイダーカット』の物語を前に進めることも可能なのかもしれません。
今の時代に必要なチョコレートのような娯楽
というわけで長々とヒーロー映画の構成やマルチバースについて書いてきましたが、個人的に『ヴェノム レット・ゼア・ビー・カーネイジ』には好意的です。
とりわけ近年の映画は多様性やポリコレを意識した作品が多く、あまりにそんな作品ばかり見て考え続けていると疲れてしまうんですよね。
映画は時勢を表すものなのでそうあって然るべきですが、時にはちょうどチョコレートのような脳を休める映画も必要です。
歴史は繰り返すもので、政府に不信感が強くなった1960年代のアメリカではアンチヒーローを描いたアメリカン・ニューシネマと呼ばれる映画が数多く作られました。
しかし何年もアメリカン・ニューシネマの流れが続くと、人々の心は疲れてしまいそんな中光を刺したのがアメリカン・ニューシネマ的流れを踏襲しつつ、すがすがしいラストを迎えた『ロッキー』でした。
『ヴェノム レット・ゼア・ビー・カーネイジ』も先に挙げたチョコレートのように、我々の心をいやしてくれる良き娯楽映画だと思います。