オレンチ
こんにちは!オレンチです!
今回は『スターウォーズ:エピソード9 スカイウォーカーの夜明け』(以下『スカイウォーカーの夜明け』)について書いていこうと思います。
『最後のジェダイ』の悲劇から2年。(僕は『最後のジェダイ』否定派です。詳しくは『最後のジェダイ』評をご覧ください。)
ライアン・ジョンソン監督から『ジュラシック・ワールド』のコリン・トレボロウ監督の手にメガホンは渡るはずだった、エピソード9はシークエル(エピソード7〜エピソード9)。
『最後のジェダイ』の不評を受け、シークエルを始めた張本人─、J.J.エイブラムスの手に再び戻り、『スカイウォーカーの夜明け』として完成しました。
記念すべき第1昨『新たなる希望』が公開された1977年から実に42年にも及ぶ壮大なスカイウォーカー家のサーガは果たしてどのような結末を迎えるのでしょうか。
その一部始終を目撃し、僕なりの感想を綴っていきたいと思います。
よろしければ最後までお付き合いください。
目次
作品情報
- 原題:Star Wars: The Rise of Skywalker
- 制作:2019年/アメリカ
- 上映時間:142分
スタッフ
- 監督:J・J・エイブラムス
- 制作:キャスリーン・ケネディ
- 脚本:J・J・エイブラムス、クリス・テリオ
- 撮影:ダン・ミンデル
- 編集:メリアン・ブランドン、ステファン・グルーブ
キャスト
- レイ:デイジー・リドリー
- カイロ・レン/ベン・ソロ:アダム・ドライバー
- フィン:ジョン・ボイエガ
- ポー・ダメロン:オスカー・アイザック
- ルーク・スカイウォーカー:マーク・ハミル
- レイア・オーガナ:キャリー・フィッシャー
- ランド・カルリジアン:ビリー・ディー・ウィリアムズ
- マズ・カナタ:ルピタ・ニョンゴ
- ハックス将軍:ドーナル・グリーン
- ローズ・ティコ:ケリー・マリー・トラン
- チューバッカ:ヨーナス・スオタモ
- C-3PO:アンソニー・ダニエルズ
- パルパティーン皇帝:イアン・マクダーミド
感想
まずは誠に勝手ながら0.5刻みの5段階で僕の満足度を表すと・・・
[jinstar4.5 color=”#ffc32c” size=”50px”]4.5といった感じ!
正直なところ「RISE OF SKYWALKER」というサブタイトルが封切られて以来、《期待》の2文字がずっと僕の心の中にはありました。
それには『最後のジェダイ』における大きな不満点だった「ルーク・スカイウォーカーの隠居による失望」を救ってくれるものに感じたからです。
実際に鑑賞してみると、本作にはそれ以上の興奮と感動がありました。
以下、何章かに分けて僕の思いを細かく綴っていきたいと思います。
オープニングクロールはスターウォーズの「扉」
『スカイウォーカーの夜明け』には、『最後のジェダイ』評で指摘した「オープニングクロールの問題点」と同じ道を辿らなかったことに胸をなでおろしました。
『最後のジェダイ』における「オープニングクロールの問題点」とは前作『フォースの覚醒』の出来事をそのまま文にしただけの《おさらい》だったということです。
あのダイナミックな、宇宙空間を流れる文章がもたらす効果とは、時の流れを感じさせることで、スターウォーズの世界に広がりを与えてくれます。
例えるなら前作のエンディングで我々はスターウォーズの世界から一旦離れ、再びスターウォーズの世界へ戻ってくるための《扉》であり、《扉》の前でその出来事を回収し、これから『スターウォーズ』の世界へ入る準備します。
離れていた間に「遠い昔の遥か彼方の銀河系」では当然ながら様々な出来事が起こっているはずです。その「何が起こったのか」ということに対して胸を踊らせ新たな『スターウォーズ』の世界へ飛び込むんです。
これが全て「知っている」内容だったら胸が踊ることはないですよ。だって知ってるんだもん。
『スカイウォーカーの夜明け』の場合、後述もしますが、噂されていたパルパティーン皇帝の復活が開口一番に語られていました。
そこから想像する前回からの出来事は、人それぞれ無限の広がりと高揚感を感じられるはずです。
映画技法的に考えても非常に合理的で、言うなれば「インサイト・インシデント」といったところでしょう。
「インサイト・インシデント」とは簡単に言ってしまえば《ツカミ》のこと。
《ツカミ》が優れているか否かで、作品に対する集中力は驚くほど変わります。
「インサイト・インシデント」が優れている例を出すならば、『氷の微笑』や『スターシップ・トゥルーパーズ』が上手いです。(要するにポール・バーホーベン監督が上手い!)
『氷の微笑』は官能的なSEXシーンから始まり、そのピークで殺人が起きます。しかし犯人の顔は映らないまま次のシーンへと繋がっていきます。
『スターシップトゥルーパーズ』の場合は、巨大な虫型エイリアン「アラクニド」によって人間の兵士が虐殺されるショッキングなシーンから始まり、「1年前・・・」のシーンにつながります。
手際の良い尻拭い
イアン・マクダーミド(エピソード6に登場したパルパティーン皇帝を演じた俳優)のキャスティングにより「パルパティーン皇帝が復活するのでは?」と大きく話題になっていましたが、まさかオープニングクロールでその存在を認められるとは思いませんでした。笑
オープニングクロールからすぐにカイロ・レンはパルパティーン皇帝の何所を突き止め、スノークの真実を知ることになります。
スノークの真実とは、「パルパティーンのクローンだった。」ということですね。要するに裏で糸を引いていたのは全てパルパティーン皇帝だったということが、第一幕の初期段階で提示されています。
『最後のジェダイ』評では、「どこの馬の骨かわからないような奴のために、ルーク・スカイウォーカーは下らなくも隠居してしまった。」と嫌悪感をあらわにしてしまいました。
しかし《どこかの馬の骨(スノーク)》は《銀河に暗黒をもたらした張本人だった(皇帝)》という新たな真実が与えられたことによって、ルーク・スカイウォーカーの下らない隠居は救済されたように感じます。
(どこかの馬の骨と比喩しましたが、スノークがあっけなく殺されたこと自体は否定していません。むしろ、『最後のジェダイ』ではカイロ・レンの成長を表す、トップクラスに良い展開だったと思います。)
まだまだルークの救済は続きます。
レジスタンスの新たな基地へ場面が移ると、本来なら『最後のジェダイ』で語るべき、レイが修行している姿が細かいながらもスピーディーに描かれていました。
さらにレイが読んでいる書物はルークが書き残したものであり、その内容というのが「パルパティーン皇帝の陰謀とその居所を追ったもの」でした。
つまり、『最後のジェダイ』では塞ぎ込んでいたように見えたルークでしたが、「実は事の真相を追っていた」という新たな事実が提示されているのです。
具体的な時系列は語られていなかったため、真相を追うことに疲れて隠居してしまったのかもしれませんが、「ベン・ソロの闇落ちに耐えきれず隠居した」のか、「隠居する前に信念ある行動をしていた」のかとでは、敬意の念に雲泥のさがあります。
(ランド・カルリジアンとの再会時に「ルークと共に探していた」と語られたことにより、ルークの行動はより肯定的なものになっていました。さらにランドの株も上がりました笑)
また惑星オクトーでは、真実に打ちひしがれたレイ・パルパティーンに対して、ルーク・スカイウォーカーはメンター的な導きをも見せてくれました。
ルークの導きによって、レイは再びジェダイの心を取り戻し、最終決戦へ挑みます。『最後のジェダイ』に不在だったメンターはようやく現れ、かつてルークを導いたオビ=ワン・ケノービやヨーダのような存在へ昇華していったように僕は思えました。
英雄は死に、夜明けに復活を遂げる
シークエル(新三部作:エピソード7~エピソード9)における個人的に最も魅力的だったキャラクターはカイロ・レンであり、その魅力は周りから頭一つ抜け出しているように思えます。(それでもシークエルは魅力的なキャラクターで溢れている)
その魅力を引き出している最もたる力は演じるアダム・ドライバーの熱演に他ならないのですが、演技については僕の著しい研究不足なため言葉にして語ることができないので、他の方向からアプローチしてみることとします。
カイロ・レンは、オリジナル(旧三部作:エピソード4~エピソード6)におけるダース・ベイダー的立ち位置なわけですが、興味深いのは三部作の間で起こる変化の違いです。この違いについては『スカイウォーカーの夜明け』のパンフレットで、J.J.エイブラムスも語っています。
要約すると、ダース・ベイダーは登場時、完全悪として自信に満ち溢れた形で描かれていましたが、ルークの存在によって徐々にその自信は崩れていき不安定となっていきます。
対するカイロ・レンはスノークに誘惑され、悪と善の間で揺れ動き、数々の試練を乗り越え完全悪の深淵へと堕ちていきます。
このように視野を三部作というロングショットでカイロ・レンに向けてみると、人々に魅力を与える世界中にある共通点へと行き当たります。
その共通点というのは《神話に登場する英雄》です。
多くの神話では、一人の人物が召命を受け、通過儀礼(イニシエーション)を経て、英雄として帰還を果たします。
これを《英雄の旅(ヒーローズジャーニー)》と呼び、世界中で語り継がれる神話に共通して見られる雛型です。(ちなみに召命とは簡単に言えば神に呼び出されること。)
神話学者ジョーゼフ・キャンベルは、このように世界中の神話に共通点があることを、古来から人々の心の深淵に潜む精神が関係していると、『千の顔を持つ英雄』の中で語っています。
要するにジョーゼフ・キャンベルに言わせてみれば、「英雄とは人類が心の奥で求めている共通の有るべき姿。もしくは進むべき道」と解釈できるように思います。(実際、旧三部作を作ったジョージ・ルーカスは『千の顔を持つ英雄』に大きな影響を受けています)
スターウォーズに話を戻すと、ダークサイドへ進んでいる以外、カイロ・レンの歩んできた運命は《英雄の旅(ヒーローズジャーニー)》そのものではないでしょうか?
スノークから召命を受け、親殺し、師殺しというシスの通過儀礼とも言える試練を経て、ダークサイドへと堕ちていきました。このような共通点からカイロ・レンの魅力の根底には、人々が心の奥に臨む英雄が潜んでいるように思えてならないのです。
さらに興味深いことが『スカイウォーカーの夜明け』で起こります。
というのは前述した、《英雄の旅(ヒーローズジャーニー)》の中で多くみられる通過儀礼が《死と再生》だということです。
英雄は一度死に復活することで真の英雄となります。最も有名な例を挙げると、ナザレのイエス─、つまりイエス・キリストです。
そして彼らの復活に共通することはいずれも《夜明け》でした。
カイロ・レンも《悪の旅(ダークサイド・ジャーニー)》を彷徨っていましたが、「レイという女神によって一度死を遂げ、復活することでスカイウォーカーに夜明けがやってきた。」と考えると、今回の邦題は味わい深いものになりますよね。(日本の配給がそこまで考えていたかは疑わしいですが・・・笑)
ちなみに『千の顔を持つ英雄』で、英雄は女神を受け入れることで祝福される。母の死をもって生を取り戻す。などといった例も挙げており、女神はレイ。母やいわずもがなレイアに置き換えると驚くほど腹落ちが良いように思えました。
良くできた脚本とは
ブルース・ウィリス主演の『ダイハード』は脚本が非常に良くでいています。
他の映画でもいいのですが、パッと思いついたのが『ダイハード』だったため、『ダイハード』を引き合いに『スカイウォーカーの夜明け』の脚本について語ってみたいと思います。
なぜ『ダイハード』の脚本は良くできているのでしょうか。
それは、伏線と回収が見事なほどスムーズに行われており、前半後半で紐づけてみると、無駄と思えるシーンが非常に少ないからです。
ここで「アクション映画に伏線?」と思う方もいらっしゃるかと思いますが、伏線はミステリ映画にあるようなどんでん返しのためだけのものではなく、むしろあらゆる映画や物語に必要な要素だと思います。
実際に『ダイハード』の伏線を例に挙げてみましょう。
まず主人公のジョン・マクレーンは飛行機でNYからLAへとやってきます。ここで「高所恐怖症」だということが提示され、これから始まる事件がマクレーン刑事にとって、いかに不運かを知らしめています。
さらに「高所恐怖症」を克服するには「裸足でカーペットを歩くと良い。」と教わります。
早速マクレーンは到着したナカトミビルで裸足になりますが、その直後にテロが勃発してしまい、裸足のまま逃げざるを得なくなってしまいます。
こうすることによって物語の後半、裸足であることが足かせになるような窮地という見せ場が生み出せました。
またジョン・マクレーンの妻、ホリ―が旧姓を使って働いていたことにマクレーンが腹を立て口論となりますが、そのおかげでテロリストたちにマクレーン夫人だとクライマックスまでバレず、史上最大のピンチ(=見せ場)を後半まで上手に引っ張っています。
さらに映画の前半でホリーが会社から贈呈されるロレックスはラストの場面に活かされます。
このように、さりげない瞬間に伏線を張り、後々見せ場に活かしているんです。
長々と『ダイハード』について語ってきましたが、『スカイウォーカーの夜明け』にも似たようなことが言えると思います。
例えば、レイが修行していた際にチラッと口にしていた「共にあれ」は、後半最も熱い展開で再登場します。
また、繰り返し行われたレイとカイロ・レンのフォース越しによる決闘中、近くの物体がワープするような現象が見てとれました。(市場の豆や、ベイダーのマスクなど。)
これは第三幕でレイからベン・ソロへライトセイバーがフォースを通して渡されるアクションへの理解を助けています。
レイが穴倉に潜んでいた蛇の怪物を治癒した能力も、ベン・ソロを蘇らせる展開を示唆していました。
冒頭のさりげない「ファースト・オーダーのスパイ」とは誰か?という疑問も、ハックス将軍だったという衝撃に繋がりますね。
このような伏線と回収が『スカイウォーカーの夜明け』には随所に見られ、王道で観やすい脚本だったように思えます。
少年達へ贈るスターウォーズ
ジョージ・ルーカスは1977年に『新たなる希望』を作った時、「12歳の少年に向け作った」と語っています。
その心は、当時作られていた映画は現実主義のような作品が多くなり(おそらくアメリカンニューシネマの様な作品)かつてルーカスが画面にくぎ付けになったようなSFやファンタジーがモチーフの冒険活劇を蘇らせたかったそうです。
これは自戒の念も込めて言うのですが、ポリコレがどうのやら、科学的考察がどうのやら、世間が『スターウォーズ』に小難しいことを求め過ぎているような気がします。
僕は『特別編』のVHSからスターウォーズの世界に触れ、プリクエルを劇場で観て育った世代です。『ファントム・メナス』が公開された当時は小学生で、小難しいことは一切頭をよぎらずクワイガン&オビワンVSダース・モールに熱狂しましたし、同世代だったアナキン・スカイウォーカーの破天荒な活躍に友人と一緒に爆笑しました。
数年後、『ファントム・メナス』の評判が著しく悪いという事実をしってひどく落ち込んだ日々もありました。
さらに数年後、同世代の人々はプリクエルこそ至高と唱える人もいることを知りました。
結局のところ、スターウォーズというのは、とあるディケードにSF好きの少年達の前に突如現れ、彼らを熱狂させ映画の世界に引き込むことがその役目なよう気がします。
主要な登場人物たち全員が全員、ヒーローに見える熱狂が本作には存在していたと思います。
ジェンダー問題のあるべき姿
ポリコレがどうのやらと、前の章で言及しましたが、1点だけ言わせてください。
というのは『スカイウォーカーの夜明け』に、スターウォーズにおけるジェンダー問題のあるべき姿が映し出されておりとても感動したのを思い出したからです。
そのシーンというのは物語のラスト、勝利をかみしめあらゆる種族のヒューマノイド達が抱擁を交わすシーンにありました。ごく自然の流れで女性同士のキスシーンが描かれ、ごく自然に流れていったのです。
《ごく自然に》というのがとても重要で、そのこと自体がテーマである以外の映画でジェンダー的問題を言及するのであれば、《ごく自然に》であるべきなんです。
そもそもそういった社会問題の目指すべき場所は多様性が認められた社会、つまり《ごく自然に》社会の中に多様性が溶け込んだ世界だと思うのです。
映画の世界はフィルムメーカー達の手によって自由に描くことが可能です。
その特権を利用し、目指すべき世界を描いた良い例だったと言えるのではないでしょうか。
『スタートレック』を創設した、ジーン・ロッデンベリーは1966年という、人種に対してまだまだ寛大で無い時代に黒人女性を主要キャストへ迎え入れました。
その理由は、「『スタートレック』の世界は未来であり、その未来は人種差別の様な不毛なものは淘汰されているに違いない。」という非常に気高いものでした。
『スターウォーズ』は未来ではなく遠い昔の出来事ですが、遥かかなたの銀河系から地球へ、あるべき姿を示してほしいですね。
ファンボーイズからファンボーイズへ
ディズニーにルーカス・フィルムば買収されて以来、スターウォーズはオリジナルを踏襲した形で描かれたため《ファンムービー》と呼ばれ、批判されてきました。
なぜそのような作りになっているかと言えば、『スターウォーズ 禁断の真実』で高橋ヨシキさんも指摘しているとおり、ディズニー傘下のスターウォーズに携わったフィルムメーカー達はこぞって「監督である以前にファン」と語っており、自分が如何にスターウォーズの作り手として相応しいのか、ファンボーイズへ示さなければならなかったからです。
結果、シークエルはファンボーイズ達がオリジナルに思いを馳せた「スターウォーズの思い出」のような三部作に仕上がってしまいました。
否定的な論調で語りましたが、実はオリジナルを踏襲するという三部作の作り方は、スターウォーズにおいては伝統芸的なものであり、プリクエルも同じようにオリジナルを踏襲する形で描かれていました。(それでもシークエルは露骨ですが・・・笑)
しかし『ジェダイの帰還』から36年ぶりの後の物語ということで、誰しも気になるのはオリジナルのキャラクター達が「今どこで何をしているか」ということだと思います。
36年ぶりというのがミソで、四捨五入すれば40年という月日は、ノスタルジーを感じざるを得ない月日で、オリジナルのキャラクターを登場させざるを得ないと思うのですよ。
さらに、現実世界と同じようにスターウォーズの世界でも月日が流れているのならなおさらです。
いわばメインキャスト達の究極の役作りだと感じるのです。
シークエルはファンボーイズからファンボーイズ達へ贈られたラブレターの様な三部作だったように思えました。
感情論のとしての『スカイウォーカーの夜明け』
さてここまでグダグダとわかったような論調でご託を並べてきましたが、最後は『スカイウォーカーの夜明け』を鑑賞し、直感的に感じた僕の感情をぶちかましていきたいと思います。
兎にも角にも、改めて本作に対して言いたいことは映画ファン、スターウォーズファンが口をそろえて言っているように「ありがとう。J.J.」です!
正直上映時間の半分は泣いてました笑。
ランド・カルリジアンの登場に涙し、チューイがレイアの死を知り膝を落とすシーンに涙し、ランドが引き連れてきた勇士たちに号泣しました。
多分、えずいていたと思います。笑(ウェッジ・アンティリーズもいたね!)
最初に一行が訪れた惑星では、まるでスターウォーズ42年の歴史を祝福するかのように《42年ぶりに行われる祭り》の真っ最中だったことにシリーズに対する愛情が感じられます。
物語を解決に導いたキーを《仲間たち絆》とした脚本には極上の称賛を贈りたいです。難しく仕掛けられた展開は必要なく、感情の奥に訴えかけるような─、わかりやすくも深い、誰しもが奮い立つ心に宿っている力だと思います。まさにRISEですよね!
それをランド・カルリジアンから提示されるわけですから涙しないわけにはいかないですよ。42年前に勝利を収めた先人たちの遺産は、いける伝説たちの手によって次の世代に渡された瞬間だったのではないでしょうか。
コアで変態チックなことを言うと、イアン・マクダーミドの声で、「anger!」と「Good…」が聞けたことに微笑みが隠せない人もいたのではないでしょうか?笑(彼にしか出せないイントネーションがありますよね笑)
ひとつ残念だったのは、ベン・ソロにブラスターを使わせるのであれば、DL-44ヘヴィブラスターにしていただきたかった!!!(ハン・ソロが愛用するブラスター)
ラストの展開に特筆すれば、これまでの歴史の中で平和を愛した英雄たち(ジェダイ達)の声を持って、スカイウォーカーサーガの完結を肯定された気がして、非常に腹落ちが良かったです。
エンディングでレイはタトウィーンの馴染み深い家を訪れますが、あのシーンは『ニューシネマパラダイス』的なノスタルジーを感じざるを得ません。
人は歳をとり、老けていき、その間に訪れる出会いと別れが常に成長させます。
しかし建造物というのは、半永久的に昔のままのその場所にあり続け、風化していくことで荒廃していきます。
荒廃した建造物には、時の流れと過去の思い出が共存しているように思えます。故に思い焦がれ、懐かしくも悲しくも思えてくるのではないでしょうか。
あの場に埋められたライトセイバーは次の世代に引き継がれる日がやってくるのでしょうか。
その運命を握るのは、地平線に沈む二つの夕陽を眺めるレイ・スカイウォーカーの手に委ねられているのでしょう。
レイのファーストネームについては悶々とする気持ちも確かにありますが、レイもまた一度に死に、スカイウォーカーの手によってスカイウォーカーとして転生したのでしょう。
実際レイに豊かな絆を与えたのはスカイウォーカー一族であり、パルパティーンではなく、スカイウォーカーの名を継いだレイの思いを尊重することとします。
参考文書
今回は、参考にさせていただいた本をこちらで紹介いたします。
どれも映画を見るには読み応えのある作品ばかりですので、ぜひご検討ください!
映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと シド・フィールドの脚本術
脚本家、シド・フィールドによって定義づけられた脚本術、三幕構成を解説したベストセラー。インサイト・インシデントについてはこちらに書かれています。
千の顔を持つ英雄
神話学者、ジョーゼフ・キャンベルによる神話学。
スターウォーズ 禁断の真実
『映画秘宝』でおなじみ映画ライターでサタニストの高橋ヨシキさんによるスターウォーズの解説本。ヨシキさんはスターウォーズ が公開されるたびに死んでいるそう。笑
まとめ
というわけで、ここまでが初回鑑賞の感想です!次回鑑賞した後にはもっと濃い感想をあげられるように刮目してこようと思います!
最後までありがとうございました!!