はじめまして!オレンチと申します。
今回は2023年に公開されたマーベル・シネマティック・ユニバース(以下、MCU)の33作目──『マーベルズ』についてお話しをしていきます。
というわけで早速ですが本題へ!
目次
『マーベルズ』のネタバレ感想・解説・考察
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』に次ぐスペースオペラ
2019年に公開された『キャプテン・マーベル』の続編にあたる本作ですが、MCUという大きな枠組みの中で位置付けると33作目となり、とてつもないシリーズ史に新たな1ページを積み上げた1作。ということになります。
しかも『マーベルズ』に至るまで、たった15年の歳月しか過ぎていないというのだから驚きです。
『ゴジラ』シリーズは国内に限定すると30作目まで70年、『007』シリーズは25作目まで59年という歳月がかかっているのを鑑みれば、MCUの速さというのは一目瞭然ですよね。
そんな映画界のビックバンとでも呼ぶべき拡大を広げているMCUですが、同じシリーズ・同じ世界観を共有しつつ、様々なジャンルで物語を語るという点も大きな魅力の一つです。
例えば『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』が『コンドル』と『ヒート』を組み合わせたかのような陰謀劇 × ガンアクションだったり。
『マイティ・ソー/ダーク・ワールド』のようなハイファンタジー(魔法的要素が一般的な異世界を舞台とする物語)だったり、『ドクター・ストレンジ』のようなローファンタジー(現実世界のなかで魔法的要素が扱われる物語)だったり。
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のように『スター・ウォーズ』を彷彿とさせるスペースオペラだったりと、実に多種多様なジャンルの中でMCUの物語は語られているんです。
では『マーベルズ』はどんなジャンルの中で語られていたかというと、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』を彷彿とさせる紛れもないスペースオペラでした。
本作では非常に重要となるジャンプポイントが登場するなど、共通点も多いですよね。
紛れもないと言ったのものの、スペースオペラの定義は曖昧です。
独断と偏見を交えてスペースオペラを定義づけるのであれば、複数の惑星を跨ぐ冒険活劇であり、かつ異星人との文化交流が一般化している世界観ということになると思います。
上記のようにスペースオペラを定義した場合、実にピッタリと『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』や『マーベルズ』はスペースオペラにハマります。
つまり『マーベルズ』は『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』に次ぐ骨太なスペースオペラだったというわけです。
SF好きな人なら『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーVol.3』で一旦シリーズが完結してしまった矢先、MCUでまたスペースオペラを味わえたという喜びは大きかったのではないでしょうか。
2種類のスペースオペラ
また『マーベルズ』と『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』との間に感じた、スペースオペラ的な違いについても深堀してみようと思います。
単刀直入にいうと、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』は『スター・ウォーズ』のDNAを。『マーベルズ』は『スター・トレック』のDNAを持っていると言えます。
両者の違いが何かというと、地球を基盤としているか否かです。
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のピーター・クイルは地球出身ではありますが、舞台における地球的要素はそれくらいで、物語はどこか遠くの銀河でのみ進行するためほとんど異世界のように感じます。
異世界のように感じさせるメリットは、科学的考察を無視しやすく、より神話的な物語を描くことができます。
例えばルーク・スカイウォーカーもピーター・クイルも父親が強大な力を持った貴種流離譚的な物語でもありました。
貴種流離譚とは、市井の人として暮らしている王族の末裔が、元の王座へと戻っていく物語の類型で、『スター・ウォーズ』のほかに有名なものをあげると、『ロード・オブ・ザ・リング』(アラゴルン)や『ライオン・キング』などがあります。
一方で『マーベルズ』には地球が物語に強く絡んでいるので、スペースオペラでありながら、近未来SFを見ているような感覚を味わえます。
近未来ということは今よりちょっと先の未来なので現実味を感じることができます。現実味を感じるということは、前者のスペースオペラよりも親しみやすいと言えるでしょう。
その代わり現実感のノイズにならないよう、ある程度、科学的考察の信ぴょう性が必要になってきます。本作における科学的考察を担保していたのがやたらと科学的に物事を説明しようとするモニカ・ランボーあたりかなと思います。
モニカ・ランボーのセリフは理解できるようで全く理解できないので、信ぴょう性といいうよりジョークに近いですがw
現実味を感じることのできる良さを持ったスペースオペラなおかげで、ジャンプポイントを物語の重要な要素に設定できたり、資源に対するテーマを語ることができたのだと思います。
多様性のネクストフェーズ
そんな地球を基盤としたスペースオペラな『マーベルズ』ですが、多様性についても次のフェーズに移ったような気がします。
MCUとして初の女性主人公として封切られた『キャプテン・マーベル』。何度打ちのめされようとも立ち上がるキャロル・ダンヴァースの姿に心を打たれました。
『キャプテン・マーベル』では視覚的にキャロルが立ち上がるショットが何度も刻まれています。
『スパイダーマン:ホームカミング』では様々な人種の生徒が通う現実味のあるキャンパスが描かれていたり、『キャプテン・マーベル』以降、男性優位社会に中指を立てた『ブラック・ウィドウ』や、人種や宗教・性的指向にも言及した『エターナルズ』などなど、近年のMCUは常に多様性と戦ってきました。
世界中で最も観られている映画シリーズで、多様性について言及していくということはとても意義の高いことだと思います。
とりわけヒーロー映画なわけで、スクリーンの中の人命を救うだけでなく、マイノリティとして悩みを抱える現実の人々にも手を差し伸べる姿勢は、真のヒーロー性と言えるのではないでしょうか。
そんな中での『マーベルズ』での立ち位置は『ブラックパンサー』や『シャン・チー/テン・リングスの伝説』によく似ている気がします。
というのも『ブラックパンサー』は、主要な登場人物をアフリカ系アメリカ人で構成した初めてのヒーロー映画であり、『シャン・チー/テン・リングスの伝説』は主要な登場人物をアジア系アメリカ人で構成した初めてのヒーロー映画だったからです。
『ブラックパンサー』や『シャン・チー/テン・リングスの伝説』が多様性を求める世界に対して何をもたらしたかについて、詳しくは僕の『シャン・チー/テン・リングスの伝説』評を見ていただきたいのですが、『ブラックパンサー』の成功を得てMCUプロデューサーのケヴィン・ファイギはこう語っています。
「どんな人種であろうと自分たちを代表するヒーローをを持つべきであり、我々はそれを提供すべき立場にいる。」
──ケヴィン・ファイギ
そして『マーベルズ』は主要な登場人物を女性で構成した初めてのヒーロー映画だったんです。
その点では『ブラック・ウィドウ』も同じようなことが言えますが、こちらは男尊女卑のメッセージ性が強く、そのためヴィランが男性(ドレイコフ:演 ─ レイ・ウィンストン)だったりします。
『ブラック・ウィドウ』と明らかに違うのは、主要な登場人物を全て女性にして、真っ向からエンターテイメントを作ったという点です。
つまり『ブラックパンサー』や『シャン・チー/テン・リングスの伝説』そして『マーベルズ』は、白人男性不在であろうが、商業映画は成立するということを真っ向から証明した作品たちだったように思います。
また個人的に感銘を受けたのが、キャロルとヴァルキリーの関係についてです。
おそらく恋人関係なんじゃないかと思わせるシーンがあったと思いますが、特に説明しようとしないところが素晴らしいと思います。
少し前だと彼女たちはレズビアンもしくはバイセクシャルだというカミングアウト的な描写があったりしたのですが、本作では説明的な描写は避けられていました。
そもそもカミングアウトという固定観念自体が、そろそろ前時代的だと考えなくてはならないのかも知れません。
僕たちだって女性が好きなわけでも、男性が好きなわけでもなく、その人個人を好きなわけですから。
そんなことを『マーベルズ』の件のシーンでは語っているような気がしました。
力を封じて清算すべきものを提示する
さて『マーベルズ』は脚本的にどうだったかという点にも深掘りしてみたいと思います。
映画の脚本について深掘りするときは、三幕構成に当てはめて考察すると因数分解しやすいです。三幕構成について詳しくは僕のブログでも紹介していますし、三宅隆太氏の解説がとても参考になりますのでぜひ調べてみてください。
映画の楽しみ方(脚本編)『三幕構成』また三幕構成の提唱者であるシド・フィールドの書籍も面白いのでこちらもぜひ参考にしてみてください。
とにかく三幕構成で映画を分割すると、1:2:1のような配分となり、それぞれを第一幕:第二幕:第三幕と呼びます。
そして第一幕には【状況設定】、第二幕には【葛藤】、第三幕には【解決】というように大まかな役割が与えられています。
本作『マーベルズ』における第一幕は、大まかにキャロル、モニカ、カマラの3人が宇宙船で旅を開始するあたりといったところで、かなり動きの激しい第一幕でした。
そんな第一幕で提示された【状況設定】は<1. キャロル・ダンヴァースの力の封じ込め>と、<2. 清算すべき葛藤>です。
順番に深掘りしましょう。
第一に、スーパーパワーを使うと3人の場所がスイッチしてしまうことで、キャロル・ダンヴァースの力を封じ込めているわけですが、これは端的にキャロル・ダンヴァースが強すぎるからだと思います。
キャロル・ダンヴァースはサノスとサシで殴り合えるほどの実力を持っていて、おそらくMCUのヒーロー史上最強ですよね。そのためか『アベンジャーズ/エンドゲーム』でも秘密兵器的な扱いで、他のヒーローに比べて出番は少なめでした。
『キャプテン・マーベル』ではまだ力が覚醒していなかったので、彼女一人でも十分成立していたのですが、力が覚醒した後となると、作劇的にとても扱いにくいキャラクターなんだと思います。
というわけで、特に第一幕では「場所のスイッチ」をキャロル・ダンヴァースの足枷として機能させていたのです。そんな足枷だった「場所のスイッチ」を第二幕、第三幕と経ていくうちに、チーム特有の技のように昇華させていくからエモーショナルですよね。
第二に清算すべき葛藤というのは、キャロルとモニカの確執です。こちらも「場所のスイッチ」によって違和感なく浮き彫りにされています。
というわけで一方は憧れ(カマラ –> キャロル)、他方で疑い(モニカ –> キャロル)という興味深い三角関係を作り上げ、3人のヒーローが共演することに意味を与えていました。
さらに「場所のスイッチ」はカマラを銀河へ連れ出す動機としても機能しています。スーパーパワーを持っているとはいえ、彼女はまだ高校生なので普通に考えたら危険に巻き込むわけにはいきませんよね。
第一幕で3人の場所が離れていると悲劇を招くということをしっかりと描き、カマラも一緒に連れていくことに説得力を与えていました。
マーベルファンの夢を具現化したパジャマパーティー
そんな第一幕の設定によりチームを組むことになったマーベルズな訳ですが、監督のニア・ダコスタがマーベルオタクかつ、カマラ・カーンの大ファンだということもあってか、マーベルファンが一度は妄想してしまうような”推し”との夢が具現化されていたと思います。
キャロルの初登場シーンから彼女の衣装は随分と自然体だったのですが、3人が宇宙船に集まると、どんどん3人の衣装がラフになっていくんです。
ぜひこのあたりのキャロル、モニカ、カマラの衣装に注目して欲しいのですが、まるでプライベートで遊んでいるかのように見えるんですよね。
カマラ・カーンのようにファンフィクションを書くほど熱狂的なファンであれば、自分の”推し”とは誰もが一度は妄想したことがあるのではないでしょうか。
例えるなら自分の”推し”とのパジャマパーティーといった感じで、アベンジャーズファンのカマラが初登場の作品に相応しく、カマラを通してスクリーン越しにMCUファンの夢を叶えてくれるような第二幕のひとまでした。
本場も変だと思っていた歌う民衆たち
さてさてアラドナ星での出来事についてもやはり触れておきたいですね。
ダー・ベンの目的が惑星ハラを復活させるための資源奪取ということに気づいた3人は、次の目的が水であり、水の惑星アラドナが狙われたことに気づくわけですが、どこかアラドナへ向かうことに乗り気じゃないキャロル・ダンヴァース。
アラドナについてみると、その理由が明らかになるのですが、とにかくアラドナのユニークな点はその言語です。
なんと彼らの言語は「歌」。
彼らとコミュニケーションを取るためには歌わなければならないんです。踊りは余計な気もしますが、歌ったら踊りたくなるのがヒューマノイドのサガといったところなんでしょうか。
メロディに乗っていない言葉はアラドナ人には理解ができないらしく、唯一なのか非メロディな言葉で会話できるヤン王子は「バイリンガル」の称号が。
悲鳴までメロディに乗せる徹底っぷりで、こういった細部まで世界観の構築に配慮されていると真実味が増しますよね。
とこれまでどんなスペースオペラでも見たことがなかったユニークなアラドナ人なのですが、要するにミュージカル映画の要素を星1つ使って注入してきたわけなんですよね。
ここで面白いのが、ミュージカル映画における違和感にある意味で完璧な答えを導き出したという点です。
というのも歌って踊るのが常識的なミュージカル映画ですが、”突然”歌い出す非現実性が苦手な人も少なくないはず。
ミュージカルというものを遡ると、諸説ありますがオペラの誕生まで遡ることができます。
そしてオペラにおいても、歌って演技することに違和感を持っていた人が少なくなかったようなんです。
つまりミュージカルという媒体は、その誕生からずっと”突然”歌って踊る非現実性を受け入れない人が一定数いたんです。
そんなミュージカルに現実性を持たせるため『マーベルズ』は”言語”にしてしまったんですね。
歌って踊ることがアラドナ人の文化なので、否定しようがないですよね。
そんなユニークで素晴らしい文化を持ったアラドナ星ですが、惑星ハラに活気が戻った後、水は返還されたのでしょうか。気になって仕方がないです。
編集の
最後は『マーベルズ』の編集について少し言及してみます。
というもの本作では編集があまりうまくいっていなかったように思えるんです。特に気になるのがカットバック不足で、登場人物が会話しているようなシーンではお互いのセリフに合わせて、話者が映し出されたショットに切り替わっていきます。
カットバックがない場合は、ツーショットにしてそもそも2名を同じショットの中に収めるか、長回しでカメラをパンさせたりすると思うですが、『マーベルズ』の場合、片方のセリフしか聞こえないシーンが何度かありました。
例えばカマラがモニカに対して「大丈夫なの!?」と聞く切迫したシーンでも、モニカにカットバックされることもパンされることもなく、カマラのセリフのみでそのシーンが終わってしまいます。
つまりカマラの独り言あるいや無視されているような、なんとも言えない気持ち悪さが残るんです。
全編通してそんな編集が随所で気になったりしました。