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『キング・オブ・コメディ』解説ネタバレ感想・伏線・考察|【評価】

オレンチ
オレンチ

はじめまして!オレンチと申します。

今回は1982年公開、マーティン・スコセッシ監督とロバート・デ・ニーロが5度目のタッグを組んだ『キング・オブ・コメディ』について考察し、僕なりに解説していければと思います。

今となっては『タクシードライバー』と並び、トッド・フィリップス監督の『ジョーカー』の元ネタとなっていることで有名な作品ですね。

というわけで早速、本題へと進んで行きましょう!

注意

この記事はネタバレを含みます。未鑑賞の方はご注意ください。

『キング・オブ・コメディ』のネタバレ感想・解説・考察

現実と妄想の区別がつかない男

『キング・オブ・コメディ』はコメディアンとして有名になることへ異常な執着を持った男を描いたコメディとスリラーが共存する作品。サイコ映画としても分類することができるでしょう。

サイコ映画たる理由として主人公ルパート・パプキンは、現実と妄想の区別がつかない危うい思考を持っているからです。

マーティン・スコセッシ監督が描くロバート・デ・ニーロは、これまで必ず「話の通じない男」を描いてきました。

例えば『ミーン・ストリート』では無軌道で協調性のないジョニー・ボーイという男を、『タクシードライバー』では自分の正義を疑わない孤独な男を、『レイジング・ブル』では妻への異常な執着から自滅していく男を──、と言った具合ですね。

本作『キング・オブ・コメディ』も例外ではなく、ルパートの妄想によって周囲の人々は迷惑を被ります。

劇中数回にわたりルパートの妄想を見ることができますが、妄想の表現がなかなか面白いんです。

というのは一番最初、【ルパートがジェリーに番組の出演を依頼される】という妄想シーンなのですが、このシーンはルパートとジェリーの二人が会話をするシーンで、基本的に両者の肩越しショットで構成されています。

肩越しショットというのは、聞き手の肩越しを前景に話し手を写したショットのことで、二人が会話するシーンでは最もよく見られるショットですね。

そんな肩越しショットですが、件のシーンではジェリーが話者の時はルパートの肩越しになっているのに対し、ルパートが話者の時は肩越しショットになっていないんです。(そもそもルパートが話者の時はルパートの部屋に戻る)

このような構成をとることで、誰にでも「今の会話はルパートの妄想」ということがハッキリとわかるように計算されているのだと思います。

そもそも妄想や夢のようなシーンは、周囲をぼやけさせたり黒いマスクをかけたりと視覚効果に頼ることが大半なのですが、スコセッシはそう言った視覚効果をあまり利用しないんですよね。

『キング・オブ・コメディ』の妄想シーンは、スコセッシの作家性が如実に現れたシーンだった気がします。

ちなみに妄想なのか現実なのか区別できないシーンが本作には2つありまして、その1つがラストシーンです。

ルパートが逮捕されてからエピローグ的にその後数年間の流れが語られ最後はルパートがテレビに復帰して幕を下ろしますが、とんとん拍子に上手くいく流れがこれまでルパートが妄想してきた流れと酷似していると思います。

極め付けがナレーションの人が何度もルパートの名前を呼ぶ不自然さ。敢えて不自然にしているとしか思えないラストでした。

もう一つの妄想なのか現実なのか区別できないシーンが、リタとルパートが初めて食事をしているシーンです。

ルパートがサイン帳をリタに見せ、自分のサインをリタに与えるというのがシーンの流れなのですが、ルパートのサイン以外が白紙のように見えるんです。逆を言うとルパートのサインはハッキリと書かれているのが確認できます。

つまりルパートのサイン以外はかなり曖昧な写り方しかしてないんです。

さらに不思議なのがルパートの後ろに座っている初老の男性がルパートのボディランゲージと全く同じ動きをしているカットがあるんです。

ただの撮影上のミスなのか、はたまた何かを狙った演出なのか、今となっては知る術はありませんでした。

トラヴィスとルパート

物語の構造としては『タクシードライバー』に最も近く、主人公の危うさが時限爆弾のように描かれ、クライマックスに爆発する様を描いています。

『タクシードライバー』ではトラヴィスが自警団として行動を移すように、『キング・オブ・コメディ』 のルパートもジェリーを誘拐する──、つまりどちらも私欲を満たすために大胆な行動にでるんです。

ただし『タクシードライバー』と『キング・オブ・コメディ』には大きな違いもあります。

『タクシードライバー』は寡黙で孤独な男を見せるため、できる限りトラヴィスに寄った構図を取っているのに対し、『キング・オブ・コメディ』は膝下あたりまで映る構図(ミディアムショット)が多用されています。

なぜ『キング・オブ・コメディ』ではミディアムショットが多用されているのかというと、しっかりとコメディジャンルを意識しているから。

コメディではボディランゲージがとても重要になり、そんなボディランゲージを画角に収めるためにミディアムショットが多用されているというわけです。

そのためよく見ると本作のデニーロは両手を上下左右によく振っていることがわかると思います。

そもそもコメディは、できる限り観客を登場人物へ感情移入させるべきではなく、引きの構図は感情移入からも引き離す効果ももたらします。(クローズアップなどの寄りの構図は表情が豊かに伝わり、被写体の気持ちを伝えたい時などに使われます。)

ただしあくまでも本作ではボディランゲージを捉えるだけのためのもので、しっかりとルパートへ感情移入させるあたりが『キング・オブ・コメディ』の面白いところであり、スコセッシ監督のすごいところなのかなと思います。

『タクシードライバー』と『キング・オブ・コメディ』のもう一つ大きな違いにトラヴィスとルパートの性格の違いも挙げることができますね。

トラヴィスは基本的に人付き合いが苦手なタイプの人物でしたが、ルパートは人並み程度に社交性があるように見えます。

例えばジェリーを出待ちする冒頭のシーン。ルパートは出待ちの常連のようで、同じように常連の人と「サインの交換をしよう」と声をかけられるほど交友関係が出来上がっていました。

さらにメッセンジャーの仕事?で封筒をとある企業の受付に届けたシーンでも受付の女性ととても親しげにしていましたよね。

また本作のヒロインとも言えるリタとの会話からもルパートは元々変人ではなかったことが伺えます。

このように第三者から見たルパートは至って健全な人物で、ともするとトラヴィスよりも凶悪さを秘めているように思えます。

というのはトラヴィスには元から近寄り難いオーラが出ているのに対し、ルパートは一見そんな風に見えないからです。

深く関わりを持った後で、実はやばいやつだったとわかる方が圧倒的に怖いですよね。

前述もしましたが、そんな男に感情移入をさせるのがマーティン・スコセッシのすごいところ。『ニューヨーク・ニューヨーク』も『レイジング・ブル』も同じような「関わりたくない男」を描いておきながら、ラストに向けて何か希望を残す流れを作ってくるんです。

本作も例外ではなく、ルパートはコメディアンとして確かな才能を持っており、その才能を最も認めさせたかったジェリーとリタへ突きつけることに成功します。

さらに「底で終わるより一夜の王でありたい」というセリフからは男らしささえ感じてしまいますよね。

このラストシーンまで徹底的に危ういダメ男として描いておき、カウンターパンチのようにルパートの才能を突きつける構成が本当に見事だと思います。

3人の視点から描くスターの苦悩

さてデニーロとスコセッシの映画を系譜的に見ていくと一人の視点で描いてきたことがよくわかります。

『ミーン・ストリート』ではチャーリー(ハーヴェイ・カイテル)を、『タクシードライバー』ではトラヴィスを、『レイジング・ブル』ではジェイク・ラモッタをというように。

そんな流れ本作『キング・オブ・コメディ』とそれ以降のスコセッシ映画では多人数の視点で描くようになっていきます。

本作の場合、ルパート・パプキン、マーシャ、ジェリー・ラングフォードの3人の視点ですね。

彼ら3人を使って描きたかった本作のテーマは【スターの私生活の苦悩】と言ったところでしょう。実際、本作でジェリー・ラングフォードがニューヨークの街を歩いている時に受ける扱いは、ラングフォードを演じたジェリー・ルイスの実体験に基づいていると言います。

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