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『アイリッシュマン』解説ネタバレ感想・伏線・考察|【評価】

オレンチ
オレンチ

はじめまして!オレンチと申します。

今回は2019年にNETFLIXで公開されたマーティン・スコセッシ監督のマフィア映画『アイリッシュマン』について僕なりに考察し、解説していければと思います。

『アイリッシュマン』はロバート・デ・ニーロとマーティン・スコセッシが実に24年ぶりにタッグを組んだ作品で、スコセッシ × デ・ニーロ作品としては9作目となります。

すでに俳優をほとんど引退していたジョー・ペシもカムバックし、『レイジング・ブル』『グッドフェローズ』『カジノ』の”間違いのない”布陣が整っています。

さらにスコセッシ作品には初出演ですが『ヒート』や『ボーダー』などでデ・ニーロとはゆかりの深いアル・パチーノや、スコセッシの初期作に出演していたハーヴェイ・カイテルなどが集まっておりなんとも感慨深い作品となっています。

というわけで早速ですが本題へと進んでいきましょう!

注意

この記事はネタバレを含みます。未鑑賞の方はご注意ください。

『アイリッシュマン』のネタバレ感想・解説・考察

3時間30分という長尺になった訳

一時期限定的に劇場で公開されてはいたものの、劇場公開作ではなくNETFLIXオリジナル作品として舵を切った本作ですが、その理由には膨れ上がった製作費など様々な理由があったようですね。

ただ3時間30分という特大ボリュームの作品に仕上がった背景にはNETFLIX映画という理由が非常に大きいと思います。

というのも本作のテーマと上映時間を鑑みると、劇場公開というスタイルにはかなり無理があるんですよね。劇場公開の場合、当然ながら映画館の時間を占有します。どんな尺の映画だろうと基本的に映画一本分の料金は変わらないので、劇場の運営者としては短い作品を1日に何回も回せた方が当然嬉しいわけです。

これは直接興行収入に関わってくるので、映画の制作陣営としても同じです。ほとんどの映画は完成してから何度も編集されだいたい2時間くらいの尺に縮められます。

故にDVDなどに収録されているディレクターズカットという版が誕生するわけですね。

この上映時間の問題は昔からスコセッシを悩ませていた問題の一つで、『カジノ』や『グッドフェローズ』のコメンタリーなど様々な資料の中で語っていました。

3時間を超える劇場公開作も存在しますが、いずれも超ブロックバスター級のハイコンセプト(商業映画)な映画なので特大ボリュームであっても興行的勝算は見込めるわけです。

『アイリッシュマン』はスコセッシやデ・ニーロ、アル・パチーノのネームバリューはあるものの、どちらかといえばソフトストーリー的(芸術映画)な映画なのである程度、客層はしぼられてしまうんです。

これがNETFLIX配信作品となると状況は変わります。

NETFLIXの場合、1再生に料金が発生するわけではないので興行と上映時間は全く結びつかないんです。なんなら何回かに分けて観てもらったり、繰り返し観てもらったほうが契約を継続してもらえるのでNETFLIXとしては旨味が強いでしょう。

『アイリッシュマン』のドキュメンタリーの中でも「人々の映画の見方が変化している」とスコセッシが語っていましたが、まさにその通りで今は映画という媒体との向き合い方の転換期なのかもしれません。

そう考えると『アイリッシュマン』は時代の潮流をいち早くキャッチしたパイオニア的作品なのかもしれません。(その前にあるフォンソ・キュアロン監督の『ローマ』がありますね。)

つまるところ『アイリッシュマン』はスコセッシが思いっきり映画を作った結果であり、繰り返しや何回かに分けて鑑賞することを前提にして作られた作品なんだと思います。

ギャング映画の”黄昏”

いきなり長々と『アイリッシュマン』の内容と離れたところをお話ししてしまいましたが、本作の映画史的な位置を鑑みるととても重要に思えたので冒頭で語らせていただきました。

というわけでようやく本題に入っていくのですが、本作を一言で表すなら【ギャング映画の”黄昏”】と言えるような気がします。

スコセッシとデ・ニーロは『ミーン・ストリート』から始まり『グッドフェローズ』『カジノ』と裏社会のリアルを描いてきました。

思えば『ミーン・ストリート』ではギャングになりきれない自他楽な若者を描き、『グッドフェローズ』ではギャングの歩兵を、『カジノ』ではギャングの中堅とも言える層の人々を映画いていましたね。

ともすると『ミーン・ストリート』『グッドフェローズ』『カジノ』はスコセッシにおけるギャング三部作と呼べるかもしれません。

いずれもスコセッシやキャストの年齢に合わせて描かれるギャングも成長しており、年齢のTPOに合わせた作劇になっているんですね。加えて当時スコセッシやデ・ニーロが抱えていた心の葛藤のようなものを劇の中に反映させており、当時の思いを切り取った自伝的な映画にもなっているのです。

スコセッシ作品は主人公の”独白”によって物語られる作劇がほとんどですが、その中にはスコセッシの心の叫びのようなものも一緒に染み込まさせているんだと思います。

例えば『カジノ』では膨れ上がった欲望によって崩壊していくラスベガスを描いていますが、当時のハリウッドに対する警鐘というテーマも隠されています。

詳しくは僕の『カジノ』評を参照してみてください。

『カジノ』解説ネタバレ感想・伏線・考察|【評価】

その流れで『アイリッシュマン』を考えると、ついにギャングのボスの世界を映し出したように思えます。

先ほどギャング三部作と称しましたが、本作はそんな三部作のエピローグ的な位置付けに感じます。いずれも主題は【ギャングにおける繁栄と衰退】で膨れ上がった欲望によって自ら崩壊していく人々の様を描いていますね。

時代や作品が変わっても繰り返し同じテーマを描き、至極人間臭い部分を丹精に映し出したのがスコセッシのギャング映画なのかなと思います。

そのなかで『アイリッシュマン』は【ギャング映画の”黄昏”】と表現しましたが、その理由は常に人生の終幕を意識させる編集がされていたためです。

『アイリッシュマン』のクライマックスではジョー・ペシやデ・ニーロなどお馴染みのキャストはこれまで描かれなかった年齢に到達し、自らの死と向き合うシーンが顕著でしたよね。

人生を振り返り娘たちの懺悔したり、自らの棺桶を選択したり自分が死んだ後に収まる場所を選んだり。さらにはかつて共に人生を歩んだ親友や妻は他界し、自分が死ぬということを独白で語ったり。

さらにクライマックスだけにとどまらず、様々なショットで語られています。というのがスコセッシお得意の静止画ショットに加えて名前・享年・死因のタイポグラフィが添えられたショットです。

『アイリッシュマン』では物語の核とは関係なく死であっても、ましてや死のシーンが描かれるわけでもないのに意味ありげに何度も上記のショットが挿入されていますよね。

これは本作を取り巻く人々の晩年を連想させ続けることで、映画全体に人生の終幕を思い起こさせているんだと思います。

故に【ギャング映画の”黄昏”】であり、スコセッシはこのジャンルにピリオドを打ったように感じます。

人生の終幕

そんな【人生の終幕】にスポットライトを当てた『アイリッシュマン』ですが、死を連想させるクライマックスや享年ショットだけにとどまらず、本作の構造そのものが人生の終幕というテーマをより味わい深いものにしています。

本作の構造を分割すると、「現代を生きるフランク・シーランの語り」「ラッセルとの出会いから始まるフランクの第二の人生」「フランク、ラッセル、ジミーのターニングポイントとなる事件」の3構造になっていますよね。

言い換えれば3つの時系列で物語は進行するのです。

この3構造こそが3時間30分の理由であり、NETFLIX映画としての理由であり、本作をより味わい深くしている理由であり、そしてスコセッシの技術の集大成でもあるのです。

時代が変わってもその時期を示すタイポグラフィがでるわけではないので、今のシーンがどの時代を語っているのか初見では非常にわかりずらいですよね。

時代を判断するには身に付けているものや服装(業界では乾き物というらしいです。)、老いていく表情などから読み取る必要があり、とても1回の鑑賞では全てを感じ取ることができません。

僕はあえて時期を示すタイポグラフィをカットすることで時系列をぼやかし、何度も鑑賞することを前提に作られているのだと感じます。

というのは時期を示すタイポグラフィのように定量的に与えられた情報から感じたものよりも、身に付けているものや老い具合といった定性的な情報から得た感覚の方が、自分の感情に深く根付くものだと思うからです。

一夜漬けで暗記したものよりも、生活の中で得た物の方が記憶に深く根付く感覚と似た感じでしょうか。

自分の感情に深く根付いたフランク、ラッセル、ジミーの人生はどこか他人事ではない感覚を覚え、ジミー殺害から大きく変貌するフランクやラッセルの余生をより味わい深いものにしているのだと思います。

3構造の時系列を定性的にしているのとは対照的に、定量的に与えられる情報が先ほどもお話した享年ショットですね。この情報のコントラストがより【人生の終幕】というテーマを明瞭にしている気がします。

「ラッセルとの出会いから始まるフランクの第二の人生」の背景で、激動だったアメリカ史の裏側をフランクの目線というクローズアップな目線から描いている点も見逃せませんね。

パチーノ演じるジミー・ホッファ失踪の謎を切り込むのと同時に、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺の謎にも軽いジャブを打っていました。

ジャブと言ってもかなり突っ込んだ内容で、ケネディ大統領暗殺の裏側にはギャングが絡んでいたと本作は語っているのです。

ジミー・ホッファについては本作の中でも語られている通り、当時のアメリカではエルヴィスやビートルズと並ぶ知名度で誰もが知っている人物でしたが、現代では彼のことを知っている人はほとんどおらず、時の流れの残酷さを醸し出していました。

ジミー・ホッファが委員長を務めていた全米トラック運転手組合はスコセッシ作品の『カジノ』でも少々語られていて、ラスベガスの運営資金は全米トラック運転手組合から算出されていたという繋がりもあって面白いですね。

残念ながらDVDやBlu-ray化はしていませんが、ダニー・デヴィート監督、ジャック・ニコルソン主演の『ホッファ』という自伝映画もあるのでこちらも是非鑑賞してみてください。ちなみにジミー・ホッファはジャック・ニコルソンが演じています。

いずれにしてもアメリカ合衆国はギャングと持ちつ持たれつの関係を保っていたという衝撃的な内容になっていました。

一つ批判めいたことを言うのであれば、主演陣の若返りの術についてかなと思います。

俳優の顔にのみコンピュータで処理を行い、若返りを図るこの技術なんですが、もちろん今後の映画史に大きな影響を与えていくことは間違いない素晴らしい技術ですし、近年のMCUやスター・ウォーズ作品ではよくみられる技術になってきています。

ただやはりまだ黎明期なのか、本作における若い頃のデ・ニーロ(フランク)は不気味の谷現象が抜けきれていない気がします。

不気味の谷とはCGで作られた人物の顔が生の人間とは違い、作り物感を感じさせてしまう現象で、VFX界の大きな課題の一つです。

心の葛藤を描くソフトストーリー的な作劇である『アイリッシュマン』にとってはやはり不気味の谷感は大きなノイズとなってしまっていることは間違いないと思います。

ではなぜ代役を立てることなく、スコセッシはこの技術を選択したのかというと俳優が役に憑依することで生まれる仕草や所作をフィルムに残したい思いが強かったからかなと思います。

代役では文字通り別人。スコセッシはあくまでも本人に拘ったわけですね。

この技術は今の時点でどんどん成長していますし、今後この技術が成熟し切った後にファイナルカット版として新たにCG処理を施した『アイリッシュマン』を切に願います。

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