オレンチ
はじめまして。オレンチと申します。
今回は『RAW 〜少女のめざめ〜』について考察し、僕なりに本作について解説をしていこうと思います。
というわけで以下目次より早速いってみよう!
この記事はネタバレを含みます。未鑑賞の方はご注意ください。
目次
『RAW 〜少女のめざめ〜』のネタバレ感想・解説・考察
ベジタリアンの一家に育った16歳の少女ジュスティーヌは両親・姉と同じ獣医学校に入学。入学と同時に大学寮での生活をすることに。そんな獣医学校の洗礼として生まれて初めて生肉を食べたことがきっかけに・・・。
子供から大人へ成長する通過儀礼
本作は紛れもなくカニバリズム映画なわけですが、少女の成人化という点をテーマにとても暗喩に満ちた味わい深い作品となっていたかと思います。
まず最初に注目したいのは本作の中で繰り返し行われている”儀式”について。劇中ジュスティーヌを含めた新入生たちは何度も先輩たちによる儀式へ参加させられていましたよね。
冒頭から強制的に招集され乱痴気騒ぎに連れて行かれたり、血を浴びせられたり、とりわけ印象的で物語のターニングポイントにもなっているうさぎの生肉を食べさられたりとかなりの頻度で”儀式”に満ちているんです。
“少女のめざめ”というわかりやすい邦題が付けられていることからも分かる通り、本作はある種ジュスティーヌが精神的に少女から成人へと成長する物語ですよね。
そこで見えてくるのが通過儀礼です。
通過儀礼とは子供から成人へ成長するための儀式で、人類の歴史上ありとあらゆる文化で見ることができます。中には体の一部を傷つけたり(多くは陰部)、血を伴うものも多く存在していた or しています。
例えば日本の七五三や成人式は一種の通過儀礼と呼ぶことができるでしょう。
『RAW〜少女のめざめ〜』と『赤ずきん』
つまり劇中に儀式を散りばめることで通過儀礼を暗示し、通過儀礼を暗示することで少女から成人へ成長する物語ということを暗示していたんですね。
そこへカニバリズムという特殊な癖がミックスされていたことから、カニバリズムと通過儀礼について何か関係があるのでは?と調べてみたところ、なんと『赤ずきん』へと辿り着きました。
狼に食べられてしまったおばあさんと赤ずきんの少女を猟師が救うことで有名なこの物語は、ディズニー版『赤ずきんちゃん』で一気に世界中に広がりました。
ディズニー版では流血などなく、小さな子供でも楽しめるようにデフォルメされた物語になっていましたが、元を辿るとシャルル・ペローやグリム兄弟の童話集、さらに源泉をたどると人々の間で語り継がれてきた”民話”まで戻ることができます。
民話まで戻ると『赤ずきん』という物語はカニバリズム的描写が強く、諸説はあるものの『赤ずきん』のカニバリズムは通過儀礼的要素を含んでいるそうです。
民話版『赤ずきん』では、おばあさんを殺した狼はおばあさんの肉を切り取り、おばあさんの血をビンに詰め、それを赤ずきんに食べさせるというという描写があるそうで、これは紛れもなくカニバリズムとして捉えることができるかと思います。
そこから浮かび上がる過儀礼的要素についてですが、「親族(おばあさん)の血肉を体の中に取り込むことで、親族(おばあさん)の知恵や経験を自分のものとし、成人になる」という意味があるそうです。
これはキリスト教におけるパンとワインから着想を得ているのかも知れませんね。キリスト教ではパンをキリストの肉と見立て、ワインをキリストの血と見立て、それらを体の中に取り込む(食べる)ことでキリストと一体になることを意味しています。
ここまで『赤ずきん』と通過儀礼について考察した上で『RAW 〜少女のめざめ〜』に話を戻すと、様々な繋がりが見えてきます。
初めてジュスティーヌが人肉を食らう目覚めの瞬間といっても過言ではない瞬間、ジュスティーヌは実の姉の指を食べることになります。これは赤ずきんがおばあさんの肉と血を食べる話とリンクしているように思えないでしょうか。
さらに『赤ずきん』を意識しているであろう決定的なシーンというのが、犬の解剖でお腹を切り裂く瞬間です。さらにお腹を切り裂かれた犬はシンメトリックの中心に置かれた象徴的なシーンとしても挿入されていました。
犬は狼に見立てることができ、引き裂かれたお腹は内なる自分に気づいたジュスティーヌが自分を開放したという暗喩のような気がします。ちょうど赤ずきんが狼のお腹から脱出するように。
癖、欲求についての話
というわけで『RAW〜少女のめざめ〜』と『赤ずきん』についてのつながりを考察してみましたが、続いては本作にちりばめられた癖(へき)と欲求について深堀していこうと思います。
本作の前半部分では欲求を押さえつけられている描写が非常に多く、例えば両親にベジタリアンを強要されている(本人は強要されているつもりはないかも知れませんが、カニバリズムの遺伝を危惧した両親による強要ともとれますよね)点は食欲を抑制されていると考えることができ、冒頭でジュスティーヌが「眠い」と訴えると「先輩が寝るまではNG」と睡眠欲を抑制されています。
決定的なのが食堂で食事中、セックスの話(猿のですが)をやめろと言われていますよね。一見、猿の交尾の話なのでジュスティーヌの性欲と無関係に思えますが、カニバリズムは一種の異常性癖として数えることができるので食事+セックスの会話はジュスティーヌの性欲を抑制されているという風に考えることができるかなと思います。その証拠にルームメイトとセックスした時、自分の腕を噛むことでようやく満たされていますよね。
また食事+セックスの会話というのは、ジュスティーヌがカニバリズム敵素質を持っていることを示唆しているのかもしれません。
という風に、本作の前半部分でジュスティーヌはあらゆる欲求に対しがんじがらめに押さえつけられているのです。
唯一、自分を解放する行為として蕁麻疹を掻きむしる描写がありますが、蕁麻疹というのは一度引っ掻いてしまうと止められなくなるもので、この後カニバリズムに傾倒していくジュスティーヌを暗示しているかのようでした。
鏡のシーンによって二面性を表す
という訳であらゆる欲求を押さえつけられていたジュスティーヌですが、後半になると一変し開放的になりますよね。
むろん姉の指を食べたことがトリガーなわけですが、その直後にもう一人の自分(もしくは本当の自分)を思わせるシーンがいくつかあるんです。
そのひとつが鏡のシーンで、登場人物が鏡に映ったショットはそのキャラクターの二面性を表すことが非常に多いです。そもそも鏡なんてものは何か意味が無い限り、映画の撮影においては極力排除すべきもの(スタッフが映ってしまうので)のはずなので、鏡のショットが多いと感じる場合、意図的に用意されていると言えることができるでしょう。
本作もジュスティーヌを鏡に写すショットが非常に多かったのですが、とりわけ印象深かったのは姉に借りたブルーのドレスを着て鏡の前で踊るシーンです。
このシーンは鏡の向こうからやってくる本当の自分を受け入れているように思えてなりません。
前半で抑制されていたことも相まって、本当の自分を受け入れるジュスティーヌの姿になんとも言えない解放感を味わうことができました。
もうひとつ印象的だったのが、あえてイマジナリーラインを超えるシーンです。
イマジナリーラインとは、撮影者が意識すべき架空の線のことで本来なら絶対に超えてはならない線と言われています。
例えば二人が会話しているシーンをイマジナリーライン越えずに編集すると、Aが右に向かって会話、Bが左に向かって会話しているようなシーンが出来上がります。
これがイマジナリーラインを超えてしまうとAもBも右に向かって会話しているようなシーンができてしまい、誰と誰が会話しているのか理解しづらいシーンになってしまうんです。
イマジナリーラインについては図付きのWikipediaを見てもらった方が理解が進むので、ぜひそちらも参照してみてください。「イマジナリーラインについて」。
「本来なら絶対に超えてはならない」と前述しましたが、型さえ知っていれば型破りな使い方もできるところが映画の面白いところ。
監督のジュリア・ディクルノーは間違いなくイマジナリーラインの効果を知った上でその線を越えるという手法を選んできています。
というのが犬の解剖の直前、ルームメイトの首元をジュスティーヌがまじまじと見つめているシーンです。1人の人物に対してイマジナリーラインを超えた編集を施すと何が起こるかというと、同じ人物なのにショットAとショットBで別々の人物に見えるんです。
つまり、欲求を押さえつけられ続けていたジュスティーヌと本能のままのジュスティーヌという二面性をイマジナリーラインを越えることで表現しているのでした。
アートとホラーの境界線
さて最後は軽く、本作のアート映画っぽさについて語らせてもらい終わりにしようかなと思います。
カニバリズムと聞けばどうしてもホラーと考えがちですが、本作にアート映画っぽさを感じた人も少なくは無いのでしょうか。
そう感じる源泉は物語を誰目線で描いているのかという点が重要になってくると思います。
本作の場合は間違いなくジュスティーヌの目線で描かれており、作品全体を通してカニバリズムはジュスティーヌにとっての個性として表現しようとしているからなんじゃ無いかなと思います。
個性として表現されるもので、そこに共感や理解の感情が芽生えるとアートらしさを感じることができるんじゃないかなと。蕁麻疹の受診をした際にも保険の先生?と個性について会話をしていましたよね。
例えばこれが、ルームメイト目線や同級生目線で描かれていれば、紛れもなくホラーになったことでしょう。
というわけで、『RAW〜少女のめざめ〜』についてぼくなりの考察でした。