オレンチ
はじめまして!オレンチと申します!
今回は1950年に公開された『シンデレラ』について語っていこうと思います。
早速ですが、以下目次からいってみましょう!
『シンデレラ』の基本情報
- 1950年/アメリカ
- 原題:Cinderella
- 上映時間:75分
- 監督:ウィルフレッド・ジャクソン、ハミルトン・ラスク、クライド・ジェロニミ
- 撮影:ボブ・ブロートン
- 脚本:ビル・ピート、テッド・シアーズ
あらすじ・概要
冷酷な継母や意地悪な姉たちにいじめられ、辛い日々を送る少女・シンデレラ。そんなある日、舞踏会の招待状が届いてシンデレラは胸を躍らせるが、継母たちはシンデレラのドレスを破いてしまう。悲しみに暮れるシンデレラの前に、妖精のおばあさんが現れて…。
(U-NEXTより)
ネタバレ感想・解説・考察
なぜシンデレラ城はディズニーのアイコンになれたのか
ディズニー史に燦然と輝く映画『シンデレラ』。
本作に登場するシンデレラ城は、ディズニーブランドのアイコンとして君臨し、「ディズニーランド」や「ディズニーピクチャーズ」のトレードマークとなっているほど。
しかし実際に本編を見てみると、シンデレラ城が印象に残るような目立ったシーンは無いんです。
にも関わらずディズニーのアイコンになれた理由は、本作『シンデレラ』がディズニー映画史の本格的な幕開けを担ったからだと読み取ることができます。
ディズニーの長編アニメーション映画──、ひいては世界初の長編アニメーション映画として映画史にその名を刻むのは1937年に公開した『白雪姫』ですが、1939年にナチス・ドイツがポーランドへ侵攻したことによって第二次世界大戦ば勃発し、1945年まで続きます。
その間ディズニー・スタジオは『ピノキオ』(40)や『ファンタジア』(40)など、今も残る名作を生み出しますが、徐々に『空軍力の勝利』(43)などのプロパガンダ映画を撮るようになりました。
そして『バンビ』(42)を境に、事実上ディズニー・スタジオは長編アニメーション映画から手を引いてしまうのです。(『ラテン・アメリカの旅』(42)や『ファン・アンド・ファンシー・フリー』(47)など、オムニバス映画としてアニメーション映画は作っている)
実際1940年代の映画史はプロパガンダ映画にまみれており、映画は政治の道具として使われていました。(皮肉なことにプロパガンダ映画がハリウッドの財政危機を救うことにもなる。)
こうして1950年に登場したのが『シンデレラ』で、ディズニー・スタジオは『シンデレラ』以降、より長編映画に力を入れることになり『ふしぎの国のアリス』(51)、『ピーターパン』(53)、『わんわん物語』(55)、『眠れる森の美女』(59)、『101匹わんちゃん』(61)へと続きます。
いずれも一度は聞いたことのあるタイトルだし、全てディズニー映画として認識していますよね。
そう考えると、ディズニーの輝かしい映画史は『シンデレラ』から始まったと言っても過言では無い気がします。
事実、その証拠に『シンデレラ』以降ディズニー・スタジオはほとんどオムニバス映画を制作していません。(強いて言えば『くまのプーさん 完全保存版』(77)がオムニバスに該当するかも?)
そして『シンデレラ』(50)公開から35年後の1985年、『コルドロン』に初めてシンデレラ城のシルエットから始まるお馴染みのオープニングがつけられるようになりました。
靴が脱げがちなシンデレラ
『シンデレラ』と言えば、ガラスの靴。
ガラスの靴といえば、脱げてしまったことでシンデレラと舞踏会の美女を紐づけるキーアイテムですよね。
もし深夜0時にお城の鐘が鳴ったとき、ガラスの靴が脱げていなかったら、シンデレラは逆転人生を歩めていなかったでしょう。
そうそうお城の鐘といえば、大人になったシンデレラが初登場するシーンは、お城の鐘の音でベッドから起こされ、「嫌味な鐘」と文句を垂れていました。
結局シンデレラは後々この鐘に翻弄されることになるので、未来を予見していたというか、なかなか粋な演出をしていますよね。
話をガラスの靴に戻しましょう。
『シンデレラ』の物語を前に進めるために《ガラスの靴が脱げる》ことはとても重要な《動作》ですが、実は劇中3回もシンデレラは階段で靴が脱げているんです。
1つは当然ながら0時の鐘がなってしまい慌てて逃げ帰るシーン。
もう1つはシンデレラとチャーミング王子が結婚し、2人が馬車に乗り込むエンディングのシーンで、明らかに前の0時のシーンとついをなすように構造化されているので、わかりやすいシーンです。
最後は──、というか時系列的には最初なのですが、シンデレラが冒頭で継母とアナスタシア、ドリゼラに朝食を運ぶシーンで、靴が脱げているんです。
「嫌味な鐘」の件も、朝食で靴が脱げるシーンも、明らかに今後の展開を示唆する複線的なもので、思ったよりも前後関係がしっかりした脚本だったことに驚きました。
カタルシス映画『シンデレラ』
両親を失い、継母とその連れ子に家を乗っ取られ、挙句には雑用として扱われ、財産まで使い込まれた見るも無残なシンデレラ。
継母とその娘であるアナスタシアとドリゼラは、イラストレーターの悪意を感じるほどブスなため、奴らのイジメ行為をより一層イラつかせてきます。
しかもシンデレラが3人のイジメ行為を意に介さないので、見てるこっちは「ガツンと言えや!」と、余計にイライラしたりします。
故に、最後の最後でシンデレラが一人勝ちした時の継母の表情に「ざまぁぁぁぁぁ!!!」と感じるんです。
つまりシンデレラは紛うことなき「カタルシス映画」でした。
カタルシスとは「心の浄化」のことをいい、心の中にため込んだ負の感情が何らかの要因によって解放されることをいいます。
すげー悲しかったけど、思いっきり泣くことでスッキリした経験がありますよね。
このときの”スッキリ”が、「カタルシス」です。
カタルシス映画は僕が勝手に分類している映画群ですが、他には「舐めてた相手が実は殺人マシンでしたモノ」がこれに該当します。
映画ライター、ギンティ小林さんが提唱した映画ジャンル。
チンピラが絡んだ冴えないおっさんが実は元殺し屋だったなど。
例えば『ジョン・ウィック』(14)や『イコライザー』(14)は、舐めてかかってきたチンピラがブチ殺されることで、気持ちよさを感じます。
つまり『ジョン・ウィック』(14)も『イコライザー』(14)も『シンデレラ』(50)も同じタイプの映画だということです。
継母や連れ子はブチ殺されるわけではありませんが、結局感じるカタルシスの種類は同じです。
「やり返した」「報復した」ことでカタルシスを感じるわけですからね。
個人的にはもう少し3人が悔しがる姿が見たかったなーと感じています。
ちなみに「本当は怖いディズニー映画」的な解説集で、「シンデレラはその後3人を巨大なフライパンの上で焼いた」という解説がありますが、それはグリム童話版での話なのでシャルル・ピロー版をベースとしているディズニーの『シンデレラ』とは全く異なると解釈した方が良いと思います。
もともと『シンデレラ』というのは、フランスの『灰かぶり姫』という民話で、グリム兄弟とシャルル・ペローがそれぞれの童話集として脚色しています。
この脚色されたシャルル・ペローの童話集をさらに脚色したのが、ディズニー版の『シンデレラ』。
要するに巨大なフライパンの上で3人を焼いた怖いシンデレラとは、血筋が違うのです。