真の三部作は原点に戻り、虚偽を暴く。
──ウェス・クレイヴン(『スクリーム3』より)
オレンチ
はじめまして。オレンチと申します。
今回は『ジュラシックワールド/新たなる支配者』について考察し、僕なりに本作について解説をしていこうと思います。
本作でメガホンをぶん回すのは前作のJ・A・バヨナから、『ジュラシック・ワールド』で新たなシリーズを開設した仕掛け人コリン・トレヴォロウがカムバック。
『ジュラシック・ワールド』シリーズで恐竜たちを牽引したクリス・プラットに加え、シリーズの始祖『ジュラシック・パーク』からサム・ニール、ジェフ・ゴールドブラム、ローラ・ダーンが降臨したことで大きな話題となっていましたよね!
というわけで早速、以下目次から行ってみよう!
この記事はネタバレを含みます。未鑑賞の方はご注意ください。
目次
『ジュラシックワールド/新たなる支配者』のネタバレ感想・解説・考察
“完結編”にかけられたバイアス
1993年、スティーヴン・スピルバーグによって解き放たれた映画史的にもターニングポイントと言われている『ジュラシック・パーク』から気付けば29年。およそ30年もの月日が経過していると思うと、時間の流れの速さに驚きを隠せませんね。
ちなみになぜ『ジュラシック・パーク』が映画史的にターニングポイントとなっているかというと、『ジュラシック・パーク』の成功によって映画は本格的にVFXの時代へと突入していくから。簡単に言えばCGが映画に多用されるようになったと言う感じです。(VFXの夜明け前としては『ターミネーター2』がありますね。)
そんな『ジュラシック・パーク』シリーズおよび『ジュラシック・ワールド』シリーズの”完結編”と銘打って公開されたのが本作『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』ですよね。
今回は、実の弟と一緒に劇場へと足を運んだわけですが、観賞後の弟の感想は「物足りない感」でした。
僕は鑑賞中、弟と同じように感じる人は多いだろうなと思ったんです。
というのが”完結編”と銘打った言葉にかけられたバイアスによるもので、それを紐解いていくと三部作らしい事件を期待した方が多かったのではないかなと感じます。
前作『ジュラシック・ワールド/炎の王国』のラストで仕掛けられた恐竜たちの本土進出も大きく作用していて、「次の物語は一体どうなってしまうんだろう」と胸をときめかした方も少なくはなかったのでしょうか。
ここで求められる三部作らしい事件とは、未だかつてシリーズで見たことのない未曾有の事態で、さらに期待すると恐竜たちの本土進出と絡められた大事件というような物語が挙げられるかなと思います。
しかし実際に語られた物語は、今までのシリーズの中で最も影響範囲の小さい事件だった気がします。
確かに三部作らしい事件を期待した場合、『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』で起こる事件はあまりにもスケールが小さく物足りなさを感じてしまうのは避けられないでしょう。
ただウェス・クレイヴンによれば「真の三部作は原点に戻り、虚偽を暴く。」ということであり、そういった観点から『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』は真の三部作のセオリーをしっかりと守った作品だったような気がします。
ちなみにウェス・クレイヴンによる三部作の哲学は『スクリーム3』の中で語られているので、興味があるかたはぜひ1作目から鑑賞してみてください。
共存とは責任である
では一体『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』はどのような過去の虚偽を暴いたのでしょうか。
『ジュラシック』シリーズでは基本的に恐竜をあくまでもピュアな自然界の生物として描き、イビルとしては描きません。(インドミナス系は悪意をもっていましたが。)
シリーズ中の作品で『ジュラシック・パーク』のネドリー(ウェイン・ナイト)や『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』のピーター・ルドロー(アーリス・ハワード)、『ジュラシック・ワールド』のヴィック・ホスキンス(ヴィンセント・ドノフリオ)といった具合にイビルとなるのはいつも人間であり、彼らは恐竜たちによって制裁を下されていたんです。
そんな中、唯一といっても過言ではない制裁を下されていない人物がいたんです。
それが『ジュラシック・パーク』の冒頭で登場したルイス・ドジスンなんです。ともするとドジスンこそ『ジュラシック・パーク』事件の仕掛け人であり、バタフライエフェクト的に考えれば『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』までの流れを作った張本人なのかもしれません。
しかし彼は『ジュラシック・パーク』で島の外から悪巧みを仕掛け、結果的に誰にも捌かれることなくシリーズから姿を消しました。
僕は子供ながら「ドジスンを懲らしめてや」と常々思ったりしてたんですね。
そうして一人勝ちのように闇に消えたドジスンだったのですが・・・。ついに”完結編”と銘打たれた作品で表舞台に──、それもイビルとして現れたのです!
本作を見た方ならもうお分かりかと思いますが、ドジスンはシリーズのセオリーに沿って恐竜の手(牙)によって制裁を下されます。しかも思い出の品のシェービングクリーム缶を持ち、ネドリーと同じディロフォサウルスによって。
そう思うとドジスンと睨み合うディロフォサウルスは「ずっと待っていた」と言っているようにも感じないでしょうか。彼の結末は”完結編”と呼ぶにふさわしい死に様でした。
ともすると『ジュラシック』シリーズはドジスンに始まり、ドジスンに終わったと言えるかもしれませんね。
また『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』はこれまでのシリーズで掲げてきたテーマに1つのアンサーを出しているような気もします。
そのアンサーというのが、本作のラストでもモノローグとして語られた”恐竜との共存”ですね。
なぜ共存が必要なのかと言えば責任ですね。なんの責任なのかと言えば産み出したものに対する責任です。
とりわけ『ロストワールド/ジュラシック・パーク』のラストでは恐竜の存在が世界中に知れ渡ったことによって、恐竜たちを保護下に置いた動きから、産み出したものに対する責任というテーマは次第に明るさを増してきたように思えます。
そして前作『ジュラシック・ワールド/炎の王国』ではクローンであるメイジーが登場したことからもわかる通り、産み出したものに対する責任の輪に人間も加わることになりました。
責任を問う物語である証拠に、クレア・ディアリング(ブライス・ダラス・ハワード)は恐竜たちとメイジーに責任を持って行動していますよね。ひょっとしたら親としての責任についてもかけられているのかもしれません。
また恐竜を産み出した一人であるヘンリー・ウー(B・D・ウォン)を『ジュラシック・パーク』から引きずり出し、常に責任を感じているようなキャラクターに仕上げている点からも責任を問う物語であることを感じる気がしました。
そう思うと、自然界でゾウや馬たちと肩を並べながら活き活きとしている恐竜たちの姿はとても美しく映るのではないでしょうか。
カムバックの潮流
さて、『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』について必ず言及しておかなければならないのはサム・ニール、ローラ・ダーン、ジェフ・ゴールドブラムの本格的なカムバックの件についてですよね。
本作のようなカムバックの潮流は昔からあって、サクッと記憶を辿った中で一番古いのは『ロッキー・ザ・ファイナル』と『ダイハード4』ですね。(多分もっと古くからあると思います。)
『ダイハード4』は12年ぶりのカムバックで、『ロッキー・ザ・ファイナル』は『ロッキー5』から実に16年ぶりのカムバックとなりました。
近年このようなカムバックの潮流に最も強く影響を与えたのは『ハロウィン』だったような気がします。『ハロウィン』を筆頭にそこから様々なカムバック映画が生み出され、『ジュラシック』シリーズもその流れに乗ることとなりました。
ただし上記で挙げたようなカムバック映画と『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』が一線を画するのは、カムバックである一方で、現在進行形的にシリーズが進行しているという点です。
新たなシリーズの看板を背負うのは前述したクリス・プラットによるオーウェン・グレイディですよね。
つまり『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』という作品は、新旧の顔役がアッセンブルするカムバック映画としては異色の構造となっているのです。
そんな構造をうまく使った展開もチラホラ用意されており、オーウェン・グレイディとアラン・グラントが互いに讃えあったり、オーウェンに『ジュラシック・パーク』で繰り返し見せた皮肉を浴びせるイアン・マルコム(ジェフ・ゴールドブラム)の姿は最高に面白かったです。
『ジュラシック・パーク』〜『ジュラシック・パークⅢ』までの三作は基本的に学者の知恵によって恐竜たちをかわしていたのに対し、『ジュラシック・ワールド』ではテイマー(調教師)目線で恐竜と向き合う展開が面白いなとも思います。
さて、そんなカムバックした3人の中で最も心を躍動させたのがエリー・サトラー(ローラ・ダーン)です。
エリーは1作目のヒロインとして登場し『ジュラシック・パークⅢ』でもわずかながら出演。しかし『ジュラシック・パークⅢ』でエリーが辿った道は個人的に寂しさのようなものを感じてしまったんです。
というのも学者として第一線を歩んできた女性が、家庭の枠に納まってしまったように感じたためだったので、本作の能動的に動くエリーの姿はとても輝かしく感じました。
さらにアランと互いに惹かれあっている展開も用意されており、見ているこっちがピュアな気持ちになってしまいます。ピュアな恋愛とは見た目の若さではなく心の若さということを二人からは改めて感じます。
ちなみに晩年の二人がピュアな恋愛をする大傑作にNetflixオリジナルの『夜が明けるまで』という作品があるので、アランとエリーの恋愛模様に心をときめかせた方は是非一度、鑑賞して見てください。
様々なオマージュショット
さて、『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』における過去作のオマージュショットにもわずかながら言及して見ましょう。
本作にはオマージュショットや過去作を彷彿させるやりとりが豊富に散りばめられていますよね。
電流の強さについて問われたアランだったり、制御室に向かう女性陣だったり。制御室では新旧の女性二人がタッグを組んだり、1作目では「電気を入れる」だったのに対し本作では「電気を切る」という反復を持たせた作劇も良かったです。
特に胸がときめいたのはエリーをジョン・ハモンド(リチャード・アッテンボロー)とダブらせた登場シーンと、イアン・マルコムのトーチによる囮作戦ですね。特にトーチのシーンはギガノトサウルスに対して非常にヒロイックな行動となっており、とてもかっこよかったですね。
逆に個人的ではありますが、腑に落ちなかったオマージュとして『ジュラシック・パーク』でエリーが初めてブラキオサウルスを見て固まるシーンのオマージュです。
同じアングルで同じリアクションだったとしても、驚きの矛先がイナゴォォォォォォォォォ!!!!
エリーがブラキオサウルスを見て驚くシーンは、観客が初めてCGによる恐竜を見るシーンであり、エリーの驚きはそのまま観客とシンクロしている体験に近いとてもとても感慨深いシーンなんです。
そこからジョン・ハモンドから発せられる「welcome to jurassic park」のセリフは、映画史に新たな時代を吹き込んだ最高の流れだったと思っています。
そんなシーンをイナゴに置換するなんて・・・。という思いになってしまいました。
ちなみに恐竜の映像に再び感動したい人はぜひAppleTV+で配信されている『太古の地球からよみがえる恐竜たち』をご覧ください。
『ライオン・キング』で使われた超実写の技術が恐竜のドキュメンタリーシリーズに利用されており、驚くほどリアルな恐竜の映像を見ることができます。
『ライオン・キング』を鑑賞した際に「動物園でも見ることができる動物に喋らせる映像ではなく、超実写でしかできない映像を作るべき」と言及したりしていましたが、『太古の地球からよみがえる恐竜たち』はまさにそれを実行した作品だと思います。
しかもナレーターはハモンド役だったリチャード・アッテンボローの実の弟で動物学者のデヴィッド・アッテンボローなんです。
なんとも本シリーズと深い因果を感じないでしょうか。
一幕の成功と二幕の失敗
続いて本作の脚本の進め方についても少し語って見ます。
シネコンで公開されるような大衆向けの映画のほとんどは一幕、二幕、三幕という風に「三幕構成」という脚本術をもって構成されています。
「三幕構成」については、それについて解説した記事があるので詳しくはそちらをチェックして欲しいのですが、本作は一幕で成功し二幕で失敗していたかのように思えます。
一幕の役割は【設定】です。
例えば「この映画にはどのようなキャラクターが登場するのか」「敵は誰か」「解決すべき事件はなにか」など、これから始まる物語に必要な要素を観客に伝えるフェーズということです。
本作の場合は主役級に語らなければならない人物が5名ほどいるので、一幕の役割と難易度は他の映画に比べ、かなり高くなっているように思えますね。
高い難易度を考えると『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』の一幕はかなり上手くやっていたと僕は感じます。できる限りコンパクトに主役級の紹介を済ませ、バイオシン社が何かを企んでいることを匂わせてくれますよね。
個人的にバイオシン社の研究施設へ登場人物たちが集結すべき理由を、ジュラシック・ワールド組は《メイジーの奪還》。ジュラシック・パーク組は《バイオシン社の企みを暴く》という様に、新旧キャストで目的をグルーピングした構成によって物語を理解しやすくする助けになっていたように思いました。
ちなみに映画作りとしてはできるだけ避けたいとされる説明セリフ。
ですが説明セリフを説明セリフではなくす方法があるんです。その方法というのが《ニュース映像》なんです。世界や社会の情勢が作劇に関わってくる場合、必ずと言っていいほど《ニュース映像》が利用されています。
ニュースというのはそもそも様々な事件の説明なので、ともするとニュースキャスターは説明セリフを読むことが仕事なんですよね。
ニュース番組は誰でも一度は見たことがあるはずで、説明セリフを読んでいたとしても誰も違和感を感じないというわけです。
本作でも冒頭で恐竜たちが本土に進出した件やバイオシン社というシリーズとしては初登場の企業など、細かい情報をさらっと紹介していましたよね。
一幕と二幕の切り替わりは物語の方向性を決定づける事件によって行われ、第一ターニングポイントとも呼ばれています。
本作の第一ターニングポイントが何処なのか考えた場合、人によって意見が別れることもあるかと思いますが、個人的にはメイジーが誘拐され、オーウェンとクレアがバイオシンの研究施設へと向かうことを決意するシーンが本作の第一ターニングポイントになるかなと思います。
同時期にアラン&エリーもバイオシンに到着するので、こちらサイドもターニングポイントとしては成立する気がしますね。
さて第一幕の次はもちろん第二幕。個人的にはこの第二幕が冗長なように感じました。
第二幕の役割は【葛藤】。
三幕構成を提唱した脚本家の巨匠とも言えるシド・フィールドは「すべてのドラマは葛藤である。」と言っているほど重要な部分になります。つまり映画のメイン部分と捉えることもできますね。
では本作における葛藤とは何かとした場合、ワールド組は《メイジーの奪還のためにクリアすべき障壁》であり、パーク組は《バイオシンの企みを暴くためにクリアすべき障壁》です。
この二つの葛藤は最終的に1つにまとまっていく構成をとっているのですが、1つにまとまるまでが少々長かったのかなーと感じました。
特にワールド組の第二幕は現地に辿り着くまで時間がかかってしまい、なんならスパイ映画のような語り口になっていましたよね。
おそらくワールド組だけの物語なら本作のような構成でも満足度は高かった気がしますが、問題なのはパーク組が早々とバイオシンの研究施設へ到着してしまっていることかなと。
例えばバイオシンの研究施設への到着が第二幕のスタート地点と考えた場合(あくまでも例えばです)、パーク組はスタート地点に立っているのに、ワールド組がなかなか到着せず第二幕がなかなかスタート出来ないもどかしさを感じてしまいました。
要するにとっとと5人揃って葛藤を乗り越えてほしかったんですよ。
これがワールド組だけの物語だった場合、メイジーが誘拐されたシーンが第二幕のスタート地点として観客は認識できたかもしれません。
僕もそうだったのですが、ワールド組がスパイ映画感を醸し出してきたあたりは「何を見させられているんだろう」と感じてしまいますよね。「何を見させられているんだろう」と感じてしまう原因は上記のようにワールド組とパーク組で第二幕の進み方にギャップがあるせいかもしれません。
モンスターパニックというジャンルから離れた物足りなさ
最後は軽くモンスターパニックというジャンルと『ジュラシック』シリーズの関係性について語って終わりにしようと思います。
結論から先に言うと、『ジュラシック・パーク』〜『ジュラシック・ワールド』までの4作はモンスターパニックという構造をもっており、『ジュラシック・ワールド/炎の王国』と『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』はモンスターパニックというジャンルとは少し違う構造を持っています。
というのもモンスターパニックの大前提として必要な要素は《人間を襲うモンスター》と《脱出できない環境》です。
モンスターパニックというくらいですから、パニックを引き起こすモンスターは必須中の必須。では《脱出できない環境》とはどういうことでしょうか。
《脱出できない環境》が必須とされる理由は簡単で、すぐ逃げれてしまうような環境だったらその時点で映画が終わってしまいますよね。もし逃げれる環境にいるのに、わざわざ居座ってしまう構成になっていた場合、その物語はたちまち陳腐なものになってしまいます。
モンスターパニックで物語に推進力を持たせているのは、実はモンスターの存在ではなく、モンスターのいる環境から脱出しようとしている人間の葛藤なんです。
その環境のスケールはあまり関係なく、一軒の家の中でもいいですし、『ジュラシック』シリーズのように島でもよいです。ともすると『ピッチ・ブラック』のようにまるまる惑星1つにまで拡大することができます。
恐竜を《人間を襲うモンスター》と見立てることは全シリーズでできますが、《脱出できない環境》というのは『ジュラシック・ワールド/炎の王国』、『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』になかった要素だったと思います。
「洞窟の出口の鍵が開かない」などと言った、映画の中のたくさん存在する1つの事件としては似たような状況はあったかと思いますが、本作と前作には「生き延びるためにこの環境から脱出しなければならない」という登場人物の動機はなかったですよね。
もしモンスターパニック見たさに本作や前作を鑑賞した人で物足りなさを感じた人がいた場合、そう言った理由が隠されているかもしれません。
最後の最後に一言、二言。『ジュラシック・パークⅢ』以降、T-レックスを新たな目玉商品とも言える新参恐竜の比較対象にする件と、本作でギガノトサウルスをまるでイビルのように倒す描写は本当に良くない。