オレンチ
はじめまして!オレンチと申します!
今回は『ROMA/ローマ』について書いていこうと思います。
早速ですが、以下目次からどうぞ!
『ROMA/ローマ』のネタバレ感想・解説・考察
タイポグラフィが良い。
本作が始まり、一番最初に湧き上がってきた感想です。
1970年代のメキシコを舞台にした映画なのですが、1970年代を彷彿させるフォントというより、1910〜1930年代に流行ったフォントのような気がします。
つまり、過去モノクロ映画に添えてあったタイポグラフィに近い感覚があるんです。
要するに本作のタイポグラフィは、本作が語った時代よりも、絵的にフィットするスタイルが選ばれているということだと思います。
映画におけるタイポグラフィの重要性については、ぜひデイヴ・アディの『SF映画のタイポグラフィとデザイン』を読んでみてください。
つまり、冒頭で芸術作品としての方向性を示した好例と言って差し支えないでしょう。
芸術という話題を出したので、本作の”映像美”についても触れてみます。
本作は緻密な計算によって”映像美”が織りなされています。
とりわけその多くの担っているのは《ディープフォーカス》の存在。
《ディープフォーカス》とは画角の細部までフォーカスが当たっている映像のことで、要するに画面の奥までクッキリと見えて、ブラー(ぼかし)がほとんど無い(もしくは全く)映像のことを言います。
例えば『回転』が代表するように、画面の隅々まで見えてしまうのでどこで何が起きても変では無い映像となり、過去ホラージャンルに多用されてきた映像なんです。
《ディープフォーカス》についてはグスタボ・メルカードの『レンズの言語』でも詳しく解説されているので、ぜひ一読ください。
しかし画面の隅々まで見える映像ということは、フレームインする全ての美術や小道具に気を使わなければならないということであり、あまりに労力がかかるため、次第に利用されることが少なくなった技術です。
それに加えてキュアロンは自身が得意──というか、好んで使う長回しをゆっくりとしたパン(カメラを固定したまま水平方向に移動する技術)と組み合わせてシーンを作りあげているんですね。
つまりパノラマ的に、映り込む全てのモノに配慮しなければならない映像ということなのです。
クレオが家政婦として過ごす家には物が溢れていますよね。その全てがクッキリと鮮明に映し出されるから本作は映像は美しいのです。
時に色は邪魔な情報になります。
本作はモノクロだからこそ、物と物のコントラストがクッキリと映し出されシャープな映像に仕上がっているのです。
アイソメトリック(等角投影法)な画面の構図も忘れてはならないですね。インテリアの俯瞰図などに利用されるこの配置が画面に奥行きを作り出し、整った斜めの線が美しさを物語っていました。
つまり本作は、コントラストとアイソメトリックが描き出す”線”が美しい映画なのです。
思えば冒頭の平面な見下ろしショットでも、大理石の配置がアイソメトリックを象徴しているかのようでしたね。
クレオの妊娠によって三幕構成でいうところの第一幕が終わり、物語は第二幕へと進む。
三幕構成における第二幕は《葛藤》と言われ、第一幕で提示された主人公や主要人物に様々な壁が立ちはだかるフェーズです。
要するに第二幕は「ストーリーの本題」ということ。
では本作の本題とは何でしょうか。僕には生命と人生にまつわるテーマのように思えました。
アルフォンソ・キュアロンはこれまで繰り返し生命についてを描いてきた監督ですよね。
『トゥモロー・ワールド』では、子供が産まれなくなりジワジワと滅亡へと向かっていく近未来で”全ての人が生きる意味”描いていました。
『ゼロ・グラビティ』(ゼロがつく邦題はマジでクソだな。)では宇宙を羊水に、ライフラインとなるシャトルを胎盤に、それにつながるコードをへその緒というように”誕生”を描いていましたね。
クレオの妊娠はもちろん生命を象徴する1つのファクターですが、もっと深層の部分で生命を象徴しているものがあります。
それは《水》。
本作には様々な《水》が描かれていることにお気づきでしょうか。
《水》は時に映し、時に育て、時に産み、そして時に殺すのです。
冒頭では掃除に使われている水が、海の波のように表現されていましたよね。これはクライマックスと繋がる布石でしょう。
パコとクレオが遊んでいる時は洗濯物から恵みを象徴するかのように水が滴り落ちているし、食器を洗う水や、クレオのシャワーシーンも印象的。
なぜ上記のようなシーンが印象的なのかというと、そこにも技術が隠されているのです。
本作は半数以上のシーンがミディアムショットよりも離れた位置で撮影されており、画角が広いことが特徴的。
要するに本作は画角が広い時が正常(ノーマル)な状態──、もっと言うとアイソメトリックなミディアムショットが本作のノーマルなのです。
前述したような水のシーンはいずれもクローズアップや奥行きのない平面的なショットが選ばれているため、異常(アブノーマル)を感じるのです。
これが本質ですが、アブノーマルは印象に残るのです。
死産を経て第二幕から第三幕へと移り変わる。
第三幕で印象深かった、クレオが海から上がってくるカットは誕生・再生の象徴ですね。(ちなみに死産のシーンでは泣きじゃくる程度に号泣してしまった・・・。)
映画における水から這い上がるというアクション(行動)は誕生や再生を象徴するもの。
クレオは生まれ変わったことで、心のうちを吐き出し、新たな人生を歩み出すのです。
水と映画といえばアンドレイ・タルコフスキーだが、タルコフスキー映画はまだほとんど理解できていないので(そもそも『ストーカー』しか見てないしね。)今回は引用できず悔し紛れに名前だけでも挙げておこうと思います・・。
本作はクレオの物語と並行して、ソフィアを中心とした一家も語られる。
夫の気持ちが離れていき、次第に心に余裕がなくなっていくソフィアと言う人物が僕は大好きなのですが、この家族の葛藤を象徴するあるモノがあるんです。
それはフォード・ギャラクシー(以下、ギャラクシー)という、この家族にはサイズが合っていない車です。
ギャラクシーはこの家族の父親であるアントニオを象徴しているのは言うまでもないでしょう。
アントニオは初登場するシーンからこの家に上手く入ることが出来ないのです。
以降は全てソフィアがギャラクシーを運転することになるのですが、運転するたびにギャラクシーはボコボコになっていきますよね。
ソフィアの情緒がピーク的に折れているとき、ギャラクシー(夫)が家を破壊するシーンは夫が家庭を崩壊することを象徴しているように思えます。
しかし第三幕になるとギャラクシー(夫)は売り払われ、家にピッタリな車へと入れ替えられましたよね。つまりソフィアは夫の呪縛という殻を破ったということでしょう。
第三幕ではソフィアの表情が活き活きとしているのがよくわかります。
最後にしばしば登場する飛行機について、一言添えて終わりにしたいと思う。
本作に登場する飛行機は”旅”の象徴のように思えました。
本作のクライマックスでソフィアは人生のことを”旅・冒険”と比喩し(僕はこの比喩が大好き)クレオを含めた家族全員でこれからの旅を歩んでいこうと決意しています。
つまり本作に登場する飛行機は”人生の旅”を象徴していたのではないでしょうか。