「本作はユーモアと感動の中に、人々の真の姿が描かれている」
──ブラッドリー・クーパー(俳優)
先日映画ブロガーやなぎやさんの映画評に映画を未見のままコメントしましたところ、またまた映画ブロガーふかづめさんに「見てないとは何事や!」とお叱りを受けてしまいました。
そこで大いに反省し、Amazonへ向かいました。
そんなわけでは今回はお叱りを受けた件の映画、『世界にひとつのプレイブック』をお届けいたしますよー。(やなぎやさん、ふかづめさん、みたよー)
この記事はネタバレを含みます。
心に病を抱える人の日常
物語はブラットリー・クーパーが演じる躁鬱病を抱えた主人公、パットの退院から幕を開ける。
パットの入院生活がモンタージュされるシーケンスは、本作が躁鬱を扱った映画だということを知らしめるわかりやすいファーストシーンだ。
母親を演じるのはジャッキー・ウィーバー。
ジャッキー・ウィーバーといえば、『アニマル・キングダム』。
『アニマル・キングダム』と言えば、ベン・メンデルソーン!
『アニマル・キングダム』では最高に気味の悪いベン・メンデルソーンを拝むことができる。ベン・メンデルソーンファンで未見の方がいれば、是非一度ご鑑賞を。
っと脱線脱線。ごめんなさい。
父親役を務めるのは、ロバート・デ・ニーロ。
監督のデヴィット・O・ラッセルと同様に、自身の息子が躁鬱を抱えているということで、公開される5年も前から出演を決めていたんだそう。
ちなみにうつ病を研究している近所のクソガキがラッセル監督の実の息子である。
このクソガキが真夜中に訪ねたことでデ・ニーロにキレられニヤつくシーンがあるが、ニヤついてしまったのは躁状態が発動してしまっていたためらしい。
これに対してさすがデ・ニーロというべきか、
「何にやついてんだコラァ!!あ…。いや…。怒鳴ってごめんね。」
と咄嗟にアドリブを挟み物語に取り込んだのである。
さらにパットに心のうちを打ち明け涙するシーンの涙はアドリブ。デニーロ曰く自然に涙が出てきたとのこと。
大ベテランのロバート・デ・ニーロは、本番になるまでどのように演じるか決めてないのだそうで、これが彼の言うところの生の演技ということらしい。
デニーロアプローチという言葉があるように、メソッド俳優の代名詞といってもいいロバート・デ・ニーロだが、憑依型を卒業しオンとオフの切り分けがめちゃくちゃ上手い新境地までたどり着いたのかもしれない。
さて本作のベースはラブコメなので当然ヒロインが必要になってくるが、ヒロインのジェニファー・ローレンスは第一幕(最初の30分)のターニングポイント(第一幕から第二幕へ移るシーン)までまったく登場しない。
なぜ主要人物なのにも関わらず30分も登場しないのかといえば、本作の主題が大いに関係している。
本作の主題とは、
「心に病を抱える人の日常を多くの人々に理解してもらうこと」
である。
これは原作のマシュー・クイックがそのように発言し、ラッセル監督もその部分に賛同し映画化を目指したためゆるぎない。
映画の第一幕とはこれから始まる物語の準備段階であり、
- 「何が物語のテーマなのか」
- 「主人公は誰なのか」
などを観客に伝える幕である。
ゆえに第一幕は物語の土台を固める重要な30分なわけで、本作は心に病を抱えるパットの日常をふんだんに映し出しているのだ。
例えばニッキの心を取り戻そうと、彼女が教材に使っていたヘミングウェイの『武器よさらば』を一夜漬けで読み終えたかと思えば結末が気に入らず、深夜だろうと構わず喚き散らすシーンがある。
これはハイになり寝ずに行動し続けれるという躁状態と、急に鬱状態に切り替わるという躁鬱の症状を1シーンのみで表している。
またカウンセリングの受付で急に取り乱したかと思えば、次の瞬間後悔の顔を浮かべる様は病気に対する不安と葛藤が垣間見える。(ここのブラッドリーの目が素晴らしかったなぁ。)
ちなみにカウンセリング内でも説明している通り、ニッキの浮気はパットが入院することになった原因というだけであって、躁鬱になった原因ではないです。躁鬱となった原因は本作で明かされないが、もっともっと深い問題で、父親や兄貴(シェー・ウィガム)を見ているとなんとなく察しはつく。
このようにして物語の土台をしっかり固め、第一ターニングポイントのキーとしてジェニファー・ローレンスが演じるティファニーが登場するのだ。
ある精神科医は言う。
「病気のことを正しく理解すれば、やみくもに恐れる必要もなくなります。周りの理解によって良い方向に向かう。本作はそれを教えてくれる作品なんです。」
伝えたいことは兆し
ティファニーの登場で物語は進み出す。
パットの人生にティファニーが現れ、ニッキとティファニーとの間で想いが揺らぐ。
これが物語の葛藤であり、物語の推進力だ。
推進力とはいっても、基本的にはパットのルーチンを追う形になるので、見る人によっては展開が薄く感じてしまうだろう。
この推進力に乗って描かれるのが、ブラッドリー・クーパーが言うところの《人々の真の姿》である。
パットは躁鬱だし、ティファニーは夫の死によって情緒不安定。パットの父親は強迫性障害じみているし、パットの兄は人の気も知らず言いたいことを言う。友人のロニーは家庭と仕事の重圧に今にも押しつぶされそうにある。
このクレイジーさが本作のいうところの《人々の真の姿》なのだ。本作に登場するほぼ全ての人がクレイジーであり、気分の浮き沈みの中で支えあって生活していることが描かれている。
本作にはそのことを象徴するシーンが2つある。
ひとつはスタジアム前でのパーティーシーン。
クレイジーな登場人物たちの笑顔は、各々の抱える問題が嘘かのように幸せそうだ。この笑顔をスローモーションでよく見ろよと言わんばかりに見せつける。
もうひとつは第三幕のダンスシーン。
そもそもパットとティファニーのダンスメドレーはまるで躁鬱を表現しているかのようにスローとハイなテンポを交互に繰り返す。交互に映し出される正面のカットが目を見つめあっている様を彷彿させ、二人は笑顔で向き合いながら踊り切るので、躁鬱を克服した素晴らしい映画的表現と言えるではなかろうか。
実際にパットは第二幕の終わりに、あるサインによって躁鬱と向き合う決心=克服をしているのだ。
そうそう本作はサインで溢れてもいる。
パットの父親は「なぜ一緒にランニングしない?」と映画の冒頭からパット共に行動したがる。一緒にイーグルスの試合を見たがるのも、パット共に過ごしたい─もっと根本的なことを言えば、パットを救いたい──というサインだった。
当然パットの心を動かしたのはティファニーのサインだし、ラストで語る「誰だってクレイジー」という言葉は本作を鑑賞している人々へのサインだ。
躁鬱と向き合うある議員はこう言う。
「人とのつながりがなければ克服できません。本作では、心の病を持つ人の日常と人間関係を取り戻す姿がえがかれている。家族や友人との交流があれば再出発も可能なんです。」
見る人が見れば僕のように壁一面ブルーレイを収集しているのはクレイジーだし、僕から見れば上巻の隣に下巻が並んでいないことが気にならないやなぎやさんもクレイジーだ。
心の病を抱える人は確かにクレイジーに映るかもしれないが、正しく理解すればそうでない時だってある。大切なのは互いに理解して歩み寄ろうぜということなのだ。
物語が第三幕に入ると、面白い脚本の構図に転換する。
というのはパットの目線からティファニーの目線へとシフトチェンジするのだ。
今まではパットからティファニーを追うように物語が語られていたが、第二幕の終わり─パットがティファニーの手紙のサインに気付いたショット─から今度はティファニーからパットを追うように物語が語られるのだ。
恐らくこの転換がより本作の共感度を与えるために一躍買っているのだと思う。
ラッセルカメラは演技する
かつて黒澤明監督は「カメラが演技するな!」とブチギレて、話者が変わるとフォーカスが変わるの様な演出を徹底的に嫌ったらしい。
そのため徹底的に望遠カメラで撮影し、ショット内に収まっている全ての登場人物にフォーカスが合うよう撮影した。(証明が明るすぎて俳優の桂から火が出たなんて逸話も。)
対するデヴィット・O・ラッセル監督のカメラは徹底的に演技をする。
初期の作品『スリーキングス』に比べるとかなりカメラの演技は控えめになってはいるがそれでも演技する。(『スリーキングス』は明らかに実験的ですよなぁ)
パットがうつ状態に陥った際、不安感を演出するためにこれでもかというほどの広角レンズで見下ろすショットをいれたり、父親と殴りあうシーンはスピード感を出すためにとてつもない量のカット割りをする。
その中でも見どころなのが、第2幕のターニングポイントだろう。
第二幕のターニングポイントは、ティファニーがパットの父親に啖呵を切るシーンだ。
件のシーンは主要な登場人物が全員集まり、その中にまるで自分が存在するかのように、ティファニーと父親の言い争いを見守るのだ。
《その中に存在するかのような》というところがミソで、これが何を生むかといえば緊張感である。『ザ・ファイター』でも同じようなシーンがあった気がするが、ラッセル監督はこういった緊張感を生むのが上手い。
その秘密は行き当たりばったりな撮影方法にある。
このシーンの撮影方法はラッセル監督自らセットの中に入り、台詞が決まってはいるものの、その場の感情によって流動的に演技を変えていくのだ。それをまるでホームビデオを撮るかのように自由に撮影する。
よってあの緊張感が生まれるのである。
よくよく考えるとまんまPOVだな。精神病患者のモキュメンタリーやん。