はじめまして!オレンチと申します。
今回は国内ではディズニープラスで独占配信中の『プレデター:ザ・プレイ』について考察し、僕なりに本作を解説していきます。
シリーズとしては5作目となる本作。メガホンをとるのは『10クローバー・フィールド・レーン』で長編監督デビューしたダン・トラクテンバーグ。
舞台を1700年代と大きく時代を遡り、プレデターをネイティブ・アメリカンへぶつけた今作。
というわけで早速、本題へと進んで行きましょう!
『プレデター:ザ・プレイ』のネタバレ感想・解説・考察
『プレデター:ザ・プレイ』について語る前に『プレデター』シリーズの沿革と、このシリーズには一体どんなことが求められているのか、僕なりに考察してみます。
1987年に公開された『プレデター』は、それまで多くの地球外生命体の侵略系SFと思わせながら、「ただ狩りを楽しむために地球にやってきただけだった。」という地球外生命体に新たな解釈を与えた作品でした。
その仕事人っぷりのスマート感や武器を持たない者へは攻撃しない騎士道感、強者を認める戦士感など様々な面から滲み出る気骨の高さからファンを獲得しました。
そんな孤高の戦士プレデターを、人類最強代表のアーノルド・シュワルツェネッガーと1 on 1で激突させたことで映画ファンのテンションはスパークし映画史に名を残す作品に。
続く『プレデター2』では1作目の構造は踏襲した上で舞台をジャングルから大都会へ移し、プレデターたちの文化に大きく踏み込んだ作品となりました。
『プレデター』 『プレデター2』『プレデター2』より11年後、シリーズとしては3作目となる『プレデターズ』が公開。4作目の『ザ・プレデター』とシリーズは続くことに。しかし後者の2作は僕を含めたプレデターファンにとって、手放しでは喜べない作品だったかと思います。
その理由の1つとして、3作目・4作目はプレデターの気骨の高さが弱かったような気がします。
【複数のプレデター】や【新種のプレデター】というように、どうしても表面上の真新しさだけを求めてしまっていました。
それよりもなぜプレデターがある種、敬服の念を抱くほどファンの心を掴んだのかという内面上の普遍的に求められるモノをなおざりにしてしまっていたように感じます。
つまりプレデターは残虐なモンスターではなく、西部劇や時代劇に出てくるような拮抗した力を持った・もしくは超えるべき力を持ったライバルのような存在でなければならないと思うのです。
もちろん続編に真新しさは必需品であり、【複数のプレデター】や【新種のプレデター】の一報には心が躍りましたよね!
そう思うと今作『プレデター:ザ・プレイ』は、しっかりと求められたものを踏襲した出来上がりになっていたかと思います。
というわけで次節から本作に話を戻していこうと思います。
「狩人 vs 狩人」の原点回帰を超えた意欲作
原点回帰と称賛されている本作ですが、原点を踏襲した上で真新しさをしっかりと作り込んできた作品だったように思えます。言い換えればシリーズに求められたていることをしっかりと理解しながら、新鮮さを感じられる出来栄えになっていたと言えるでしょう。
そう思えるのはひとえに「狩人 vs 狩人」という構造です。
プレデターが狩人ということは周知の事実ですし、地球にやってきた目的に至っては説明するまでもありませんよね。
しかし人間サイドも最初からプレデターを狩る気マンマンだったケースはこれまで一度もありません。
強いていてば『プレデター2』が近いかもしれませんが、”狩り”という概念とは少々遠いですよね。
要するに両者が同じ土俵で、お互いを獲物にしている構造は本作が初めてなんです。
狩人としてどちらが上か。1時間40分というフィルムの中は非常にシンプルで燃えるリングになっていたかと思います。
名前もないモブですら、コマンチ族となると勇敢に戦う姿は本当に頼もしい限りでしたよね。
そもそも本作は始まりから終わりまで、徹底して”狩人”というテーマにこだわった作品でした。
主人公ナルにとって行動原理の核となっているのはプレデターが獲物となる”試練の狩り”ですし、シカやライオン(ピューマ)など様々なシーンで狩りを見ることができます。
兄タアベがライオンを狩って集落に戻るシーンと、ナルがプレデターを狩って集落に戻ってくるシーンの反復構造はとても華麗ですよね。
プレデターの頭部を持ち帰ったナルに酋長っぽい人がドン引きしていた顔が忘れられません。
さらに【アリ→ネズミ→ヘビ→プレデター】や、【ウサギ→オオカミ→プレデター】というように、狩りによる食物連鎖を彷彿させるシーンもありましたね。
上記のように本作ではプレデターが人間以外の動物を狩るシーンが非常に多いんです。というか最初のナルたちが遭遇するまで、少なくともフィルム上では一人も人間は狩られていないんですよね。
そのような構成からも”狩り”というテーマへのこだわりの強さが伺えないでしょうか。
本来、同系統の映画であれば主人公が最初に遭遇する前──、というより主人公がその存在に気づく前に一人や二人は必ず被害者がいるものなんです。
たとえば『ジョーズ』や『アナコンダ』などのモンスターパニックものがいい例かなと思います。
そうする理由は観客に畏怖の念を抱かせるためだと個人的には分析しています。
今回のような構成がとれるのは、観客がプレデターという存在について観客がよく理解しているからで、シリーズの強見を上手く活かした舵取りだったと思います。
ネイティブ・アメリカンとアメリカ映画ということで、触れておきたいトピックがあります。
というのが原住民と侵略者というテーマについてで、本作の中でも多少ですが言及されていた部分がありました。
本作は紛れもなくネイティブ・アメリカン目線で描かれた映画であり、そういった作品は『折れた矢』や『ソルジャー・ブルー』『ダンス・ウィズ・ウルブス』などの西部劇で見ることができます。
ネイティブ・アメリカン目線で西部劇が描かれるようになった理由には、長年ハリウッドではネイティブ・アメリカンを絶対悪として描いてきた歴史があるのです。
しかし物事の目線を変えてみると見え方は大きく変わり、平和に暮らしていた原住民たちの悲惨な歴史を白人ヒロイズムのアンチテーゼとして描くようになったというのが西部劇の潮流でした。
本作でもプレデターとは違く、侵略者の影が随所で見え隠れしています。例えばワンコが引っかかった罠もその一つ。中でも最も顕著なのが、バッファローの大量虐殺シーンでしょう。
バッファローはネイティブ・アメリカンにとってとても神聖な動物なんです。
彼らの肉は重要な食料源となり、彼らの毛皮は身を守る洋服に変わり、雨を防ぐ家(テント)に変わります。まさにネイティブ・アメリカンが生きるために必要な【衣・食・住】すべてを担う存在なのです。
そんなバッファローを毛皮という価値だけのために大量虐殺したのが白人だったんですね。これは歴史的な事実で『ダンス・ウィズ・ウルブス』の中でも非常に重いテーマとして扱われています。
また歴史の闇的な話を抜きにしてSFスリラー映画として考えた場合、殺されるべき奴らが用意されている点も非常に上手いなと思いました。
人間が悲鳴を上げて逃げ惑うモンスターパニック系統の映画にとって殺されるべき奴らは必需品で、奴らが絶命する瞬間は非常に高いカタルシスをもたらします。
バッファローを乱獲し、コマンチ族を野蛮人と罵り傷つける白人たちが、為す術もなくプレデターに倒されていくシーンはとても気持ちがいいシーンだったのではないでしょうか。
とりわけこのシリーズに至ってはプレデターが無双するような場面はファンが渇望したシーンと言っても過言ではないと思います。
ともすると、シリーズで最高点とも言えるプレデターの無双シーンだったかもしれません。白人が無双されるシーンにおいては完全にプレデターがホームで、ほとんどの観客がプレデターのサポーターだったかと思います。
応援している側が絶好調だと観客も最高に気持ちがいいですよね。
さて原住民と侵略者について様々な西部劇を例に挙げてきましたが、もう一つ『プレデター:ザ・プレイ』のDNAに取り込まれているであろう作品を挙げておきます。
その作品というのがメル・ギブソン監督の『アポカリプト』です。
『アポカリプト』はマヤ文明後期を描いた作品でジャングルで平和に暮らしていた主人公が、同族のマヤ帝国に侵略され奴隷として連れ去られてしまうという物語。さらに欧州から新たな侵略者が・・・という侵略に次ぐ侵略という二重構造になっている作品です。
最初に狩りをしているシーンも似ており、ジャングルで戦うために必須のブービートラップも近いものを感じます。特に底無し沼のシーンは酷似していました。
また前述した『ダンス・ウィズ・ウルブス』などの西部劇はいずれも侵略者だった白人が原住民の世界に入っていく物語で、要するに視点の方向転換が起こる作品なんです。
他方で『アポカリプト』は初めから原住民目線で描かれており、より侵略される辛さが顕著に現れています。『プレデター:ザ・プレイ』も初めからねイティブ・アメリカン目線で描かれた作品であり、そのような点も似ていると感じる源泉の一つなのかもしれません。
また『アポカリプト』は全編マヤ語で撮影された細部にこだわり抜いた作品で、その点で言えば『プレデター:ザ・プレイ』が劣っている考えることができるかもしれません。
『アポカリプト』は侵略の歴史を体感するといった意味でもとても素晴らしい作品なので、是非一度ご覧いただきたい作品の一つです。
さて最後は『プレデター:ザ・プレイ』に見えた家父長制について少し言及して終わりたいと思います。
主人公が女性という点で既に顕著ですが、冒頭ではナルが芋掘りをしていたり、狩り=男の仕事と言わんばかりに邪魔者にされているナルの扱いからも家父長制が見て取れますね。
男に自分を認めさせたいという強い思いから、啓示を受けた”試練の狩り”という通過儀礼に全力をかけているんです。本来なら避けるべき相手なのに、果敢に挑んでいく姿勢の説得力はこういった細かい配慮から生まれているのでしょう。
通過儀礼と言えば『エイリアン vs プレデター』もプレデターの通過儀礼でしたね!「ダメだダメだ」と揶揄される『エイリアン vs プレデター』の監督ポール・W・S・アンダーソンですが、ともするとプレデターファンが求めるプレデターっぽさはよくわかっていたのかもしれないですね。
ここ最近の潮流として家父長制や多様性などメッセージが、映画の中に多く含まれていますよね。
映画の中でどんな観客にも理解できるようにメッセージが含まれ出したのはここ最近になってからですが、家父長制や多様性などのマイクロアグレッション的問題はここ最近になって出てきたわけではなく、ずっと昔から存在していたということはしっかりと知っておくべきかなと思いました。