はいどうも。オレンチです。
コロナの影響で何処にもいけない日々が続いておりまして映画観ることぐらいしかやることが無い日常を過ごしております。
僕は円盤を買って棚に並べることで幸福感を獲得している変態なんですが、今年の2月あたりから禁煙ならぬ禁円を始めました。
なぜなら買うだけで満足してしまっていた、いわゆる《積み映画》を処理するため。
メイキングを見たり、音声解説聞いてみたりと大いに寄り道を繰り返しましたが、先日300作以上あった積み映画を無事完走することができ、僕の罪は償われたわけです。
しかし積み映画を完走すると、また積みたくなるのが人間の性──。というか罪でして、ここ最近積みまくっております。
というわけで新たに購入もとい積んだ映画のひとつ。今回は『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』評行ってみます。
感想・解説・考察
[cat_icon01 title=”基本情報” icon=”jic jin-ifont-movie” color=”#f08080″]- 2017年/アメリカ
- 上映時間:122分
- 監督:ジョナサン・デイトン
- 原題:Battle of the sexes
●全米テニス協会のブタ
男性至上主義のテニスプレイヤー、もっといえば全米テニス協会に不満を爆発させた天才(女性)テニスプレイヤーが「テニスの試合で白黒つける」という超カタルシス映画的なCMだったもんで、「ギャフン」と言うスティーブ・カレルをツマミに飲むつもりで鑑賞をスタートさせたわけですが、実際はLGBT問題などもっともっと複雑な内容をはらんだ作品でした。
だいたいのあらすじを書いていくと、
1970年、女子テニス界で全米1位に輝いたビリー・ジーン・キング(エマ・ストーン)は男性選手との賞金格差に不満爆発。女子選手たちを引っ提げて「男女平等にならなければ試合やらん」とボイコットをちらつかせる。しかし全米テニス協会の責任者ジャック・クレイマー(ビル・プルマン)は「男の試合の方が楽しいやん」と罵倒し彼女らの要求を拒否。
さらに火がついた彼女らは女性だけのトーナメントツアーを開催したり、契約金1ドルで女子テニス協会(WTA)を立ち上げたりする。
一方、殿堂入りした現在55歳の男性テニスプレイヤー、ボビー・リッグス(スティーブ・カレル)はギャンブルから抜け出せず、離婚の危機に瀕していたが、ビリー・ジーンらの行動に金儲けのにおいをかぎつけ、男女混同の試合を申し込む。
といった具合で、真の男性至上主義をはらんでいるのはボビー・リッグスではなく、テニス協会の責任者ジャック・クレイマーの方なわけです。
もはや“全米テニス協会のブタ”といっても過言ではないでしょ。(特に差別の意識がないのが余計にタチが悪い)
むしろボビーの方は劇中でも言及されている通り、試合を盛り上げるためのピエロであり、引退して落ち着く前の亀田興毅よろしく、エンターテイナーとしては正直言って超一流なんですわ。
物語はビリー・ジーンとボビー・リッグスを交差させていくような筋運びで、ウーマンリブ運動の旗手(ビリー・ジーン)が男性至上主義のブタ(ボビー・リッグス)をぶちのめすというテーマを持っているわけですが、前述の通りボビーが思ったより男性至上主義ではないので、「こいつを試合に負かして「ギャフン」と言ったところで低カタルシスやぞ」なんてモヤモヤしたりしなかったり。
そもそも《真の男性至上主義のブタ》もとい《全米テニス協会のブタ》ジャック・クレイマーが言い逃げたままろくに登場せず、渦中のビリー・ジーンはというとレズビアンを開花させLGBT問題に言及するような展開をしてますけど、、、
冷静に見たらお前ただの浮気だからな。
相手が女だろうが男だろうが異性だろうが同性だろうが、生涯を誓った伴侶がいる時点でそれはもう浮気。
その点についてはビリー・ジーンを擁護できるものは何もないと思うのですよ。
この状況を丸く収めた功労者は誰かといえば外でもないビリー・ジーンの旦那さん。
僕は以前『博士と彼女のセオリー』(14)や『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』(18)などを挙げ、「偉人には必ず偉大な妻がいる」と称してみたりしたが、「偉人には必ず偉大なパートナーがいる」に改めねばなりません。
結局この旦那が底知れない理解者だったために美談のようになっているわけで。そもそも応援のためホテルに駆けつけて早々に膝のアイシングをする手際の良さは、普段から慣れていないとできたもんじゃないでしょう。
全くできた旦那だよ。
そんな聖人のような旦那が本作の核心をつくセリフを持って、ビリー・ジーンを試合へと贈り出すのでした。
美味しいところを全部持って行きやがる。
ただ冒頭でジャック・クレイマーによってぶん投げられた《男性至上主義というなの女性差別》はまだ取り残されていて、やっぱり言われっぱなしじゃ腹が立つじゃないですか。
そこでジャック・クレイマーを試合の解説者として表舞台に引きずり出す(参加させる)ことで、冒頭で受けたフラストレーションの浄化への準備が成立するわけです。
結局ジャックは解説者から降ろされ公式には部外者になってしまうわけですが、「ビリー・ジーン対ボビー・リッグス」の試合にジャック・クレイマーの生霊は残されたので無問題!
テレビ越しにビル・プルマンがプルプルと悔しがる顔をとくと観よ!
●なぜコートに立つのか
ボクシング映画──、ひいては格闘技映画において重要なのは格闘技術や試合シーンの数などではなく、彼ら彼女らは「なぜリングに上がるのか」だと思います。
つまり試合の数がクライマックスの1試合だけだろうと、何を背負っていて、どれだけ真剣に向き合っているかで極上な格闘技映画になり得るわけです。
例えば『ロッキー』(77)はこれまで負け犬の烙印を押されていた男が再起をかけてリングに上がりますし、ミッキー・ウォードの自伝的ボクシング映画『ザ・ファイター』(11)では彼を支えてくれた全ての人のため、リングに上がります。
そして良いボクシング映画というのは「なぜリングに上がるのか」をクライマックスまでに濃厚に描きます。
要するに「ボクシング映画の見どころはリングにあらず」なわけです。
なんでこんな話をしているかというと、『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』という映画は実質ボクシング映画のようだったから。
というかぶっちゃけビリー・ジーンが試合をしているシーンはラスト以外無いに等しく、なんならボビー・リッグスの方がコートの上に立ってたり立ってなかったり。
先発のマーガレット・コートがボビー・リッグスにボロ負けしてしまったことで、ビリー・ジーンの中で何かが弾け、一度は断ったボビー・リッグスとの試合に挑むわけです。
ここに至るまでにジャック・クレイマーの差別的発言はもちろんのこと、TVの司会なども用いて時代に根底に根付いた女性差別を示しており、これが感じ取れれば感じ取れるほどビリー・ジーン・キングが試合に向かって行った意義や、勝利の価値は大きく感じ得れるでしょう。
●男女は常に対比する
最後はちょっと映像言語的な内容を少々。
本作には男女を意識させる仕掛けが随所に散りばめられており、中でも注目したいのは男と女の配置でございます。
この映画の中で男女は常に向き合うような構図を撮られており、冒頭ではトイレの鏡に対して左を向いている男性たちのショットから、サロンの鏡に対して右に向いている女性たちのショットに切り替わったり、試合後のビリー・ジーンとボビー・リッグスは向き合うような構図でそれぞれ更衣室に一人たたずんでおります。
なぜ女性が左で男性が右の理由はわからないので、誰か解説求む。
もう一つだけ気づいた点は、絵画が示す心の内側です。
冒頭でジャック・クレイマーへボイコットを提案する部屋には、男性の絵画が2枚飾られており、絵の中の男性に見下ろされているような、高圧的な印象を覚えます。
これはジャック・クレイマーの男性至上主義を表している表現。
これに対してボビー・リッグスが妻へビリー・ジーンとの試合に来て欲しいと哀願するシーンでは、女性の絵画(妻)が壁に飾られており、ボビー・リッグスは実は男性至上主義ではなく、心の拠り所は妻にあることを示しているのでした。
me too運動のこととかも追う少し書こうと思ったけど力尽きました・・。またの機会に。
スタッフ
- 監督:ジョナサン・ディトン、ヴァレリー・ファリス
- 制作:クリスチャン・コルソン、ダニー・ボイル、ロバート・グラフ
- 脚本:サイモン・ボーファイ
- 撮影:リヌス・サンドグレン
- 編集:パメラ・マーティン
- 音楽:ニコラス・ブリテル
キャスト
- ビリー・ジーン・キング:エマ・ストーン
- ボビー・リッグス:スティーブ・カレル
- マリリン・バーネット:アンドレア・ライズブロー
- グラディス・ヘルドマン:sラ・シルヴァーマン
- ジャック・クレイマー:ビル・プルマン
- テッド・ティンリング:アラン・カミング
- プリシラ・リッグス:エリザベス・シュー
- ラリー・キング:オースティン・ストウェル
- マーガレット・コート:ジェシカ・マクナミー
- ロージー・カザルス:ナタリー・モラレス