こんにちは。オレンチです。
先日「そいうや『ゴッドファーザー PART III』だけ見てねぇなぁ」とか思いながら1作目と2作目のディティールもいまいち思い出せないし「最初から見返さないかんな。」と若干上映時間に億劫なってました。
重い腰を上げてやっとゴッドファーザーBOXに手を出し、何気なく背表紙を見てみたら全部に「音声解説」がついてるんすわ。
基本的に「音声解説」を見るときは1回目を字幕、2回目を音声解説、3回目に日本語、てな感じで見るんですよね。
パンドラの箱を開けた気分です。
しかしそこは腐っても映画好き。
1度、目が合ってしまったら対話しないわけにはいきません。
なんなら最近、コロナ禍の助けもあって家にある円盤の特典やら解説やら片っ端から見てやろうなんて夢も見ていたので丁度良い機会なのかも。
地獄のゴッドファーザー巡りの始まり始まり。
というわけで今回は『ゴッドファーザー』(72)の感想行ってみようと思います。
感想・解説・考察
●ゴッドファーザー製作の裏話
「アメリカはいい国です。」
そんな台詞から始まるフランシス・フォード・コッポラ監督による『ゴッドファーザー』(72)は、マリオ・ブーゾによる同名小説の映画化で、マーロン・ブランドの一流俳優としての称号を、不動のものにした作品である。
公開されると同時に当時の興行記録を塗り替える大ヒットとなったが、その制作には多大な苦労がかかっていたことはあまり知られていないでしょう。
当時のマーロン・ブランドは度重なるトラブルによってハリウッドでは嫌われ者であり、本作出演もパラマウント側からは“絶対NG”を出されていた。
しかし監督のフランシス・フォード・コッポラはマーロン・ブランドを激推し。
ギャラなしでスクリーンテストを行うことを条件に、マーロン・ブランドになんとか機会を与えることに成功したのも束の間、金髪ポニーテールに浴衣姿というヘンテコな格好でやってきた様を見たパラマウント陣営は怒りをあらわにしたが、ブランドの演技に圧倒され見事ヴィトー・コルレオーネの役を勝ち取ったという経緯がある。
そんなわけでハリウッドに嫌われてしまったことによって評価もギャラも下がっていたマーロン・ブロンドをフランシス・F・コッポラが救った形になったが、その数年後にコッポラが魂を込めた『地獄の黙示録』(79)では、マーロン・ブロンドの太り過ぎを理由に振り回されてしまい、結果的に結末を変更することを余儀なくされてしまったのはなんとも皮肉な話である。
さらにコッポラ自身も本作『ゴッドファーザー』の監督をクビになる寸前だった。
本作の映画化企画がスタートした時点では原作の知名度が弱かったが、撮影が開始されると同時にベストセラーになってしまい、ならば有名監督をと当時無名だったコッポラは下ろされる寸前だった。
ちなみに名前が上がっていた監督を一人上げると『俺たちに明日はない』(67)のアーサー・ペン。
アーサー・ペン版の『ゴッドファーザー』も気になることは気になりますな。
クビの皮一枚で繋がっていたコッポラを救ったのはアル・パチーノ演ずるマイケルがダイナーでソロッツォとマール・マクラスキー警部を銃殺するシーンだった。
件のシーンの成功によって、コッポラは一目置かれるようになり、『ゴッドファーザー』(72)を走りきることができたのだった。
そんなコッポラを救ったアル・パチーノもパラマウント側は懐疑的な目で見ており、ソニー役のジェームズ・カーンがマイケル演じる可能性があったほか、ロバート・レッドフォードの話もあったとか。
さらに面白いのはマイケル役にマーティン・シーンが応募してきていた点と、ソニー役にはロバート・デ・ニーロが応募してきていた点。
のちにマーティン・シーンは『地獄の黙示録』(79)で、ロバート・デ・ニーロは『ゴッドファーザー PART II』でコッポラに貢献することとなる。
●馬の首
いやはや当時の裏話だけで、1000文字以上使ってしまった。
ここから少しづつ内容に入っていこうと思います。
『ゴッドファーザー』(72)は紛れもなく家族を描いた作品であり、アメリカの経済成長を象徴するかのようにマイケルの成長の話でもあります。
結婚式の明るいイメージとコントラストを出すために設置されたヴィトー・コルレオーネの間から物語は始まる。
このシーンはまるで王の謁見かのように取っ替え引っ替え下っ端が頼み事やら忠誠やらを誓いにやってくるが、新たな手下が忠誠を誓う神聖であろう場面でも、孫たちは自由にドンの部屋で走り回り、それを気にしない様からヴィトーの人柄がよく見て取れる。
面白いのはこのシーンで物語のキーとなる登場人物がほとんど登場している点で、後にヴィトーに借りを返すことになる「アメリカはいい国」だと思っているおじさんや、黒幕のエミリオ・バルジー二などなど。
当然コルレオーネファミリーも全員揃っていて、長男のソニーを演じたジェームズ・カーンは実際のマフィアの中で生活し、彼らの言葉使いなどを研究したらしい。
キモ座ってんな。
ちなみに監督のコッポラはお偉いさんに「本当のマフィアとは関わらないように」と釘を刺されていたらしく、その教えを忠実に守りました。
またここで登場する人気若手歌手のジョニー・フォンティーンはフランク・シナトラがモデルで、シナトラは実際にマフィアと繋がりがあった。
偽シナトラの頼みでハリウッドに飛んだトム・ヘイゲンの頼みを断った残念な映画プロデューサーは大切な馬の首をベットの中で発見することになるが、ここで使われている馬の首は本物だというから驚きだ。
なんでも犬の餌用の馬の首をドライアイスで保存し、加工する前に撮影に使わせてもらったそう。
なんだかんだで結婚式の冒頭は「いい奴らそうじゃん」という甘ったる印象を与えるが、完全にこのショットがメリハリとなり「やっぱマフィアはマフィアや・・・」と恐怖の底に叩き落とされることになる。
本物を使った甲斐もあるってもんだ!
麻薬ビジネスを拒否したことがきっかけでヴィトーは暗殺未遂に会い、そのとき連れ添っていた次男のフレドは焦りのあまり銃を手からこぼしてしまい、ヴィトーに被さるように泣き崩れる。
この時のジョン・カザールの弱々しさがなんとも言えない良さを放っております。ジョン・カザールと言えば『ディア・ハンター』(78)でも程よいクズを演じており、こちらもまた映画にスパイスを利かせておりました。
カザールは『ディア・ハンター』の撮影中に癌を患い、治療も虚しく42歳の若さでなくなっております。惜しい人を亡くしました。
ヴィトー襲撃事件を起点にマイケルはマフィアの世界へと足を踏み入れていくことになり、敵のソロッツォを銃で打ち抜いたがため、シチリアへ亡命することを余儀なくされてしまう。
このすぐ後、ヴィトーが目を覚ますとすぐさまマイケルのみを案じるヴィトーの姿に感銘を受けました。
今見返している『ゲーム・オブ・スローンズ』のタイウィン・ラニスターにヴィトーの爪の垢を煎じて飲ませてやりたい気分です。(ティリオンの見舞い行けや!)
妹の夫にはめられ、長兄ソニーにボニーとクライドの悲劇が・・。(『俺たいに明日はない』(67)を参照のこと)
この制裁をきっかけにヴィトーは5大ファミリーを召集し、戦争を終わらせ最後の遺産としてソニーを葬った黒幕を見事割り出すことに成功する。
老衰によってヴィトーが亡くなったことをきっかけに黒幕バルジーニが動くも、シン・ゴッドファーザーマイケルは一枚上手をいき、5大ファミリーのドンを全員片付けるというデウス・エクス・マキナ的手法で見事解決するのでした。
と最後の洗礼と暗殺をカットバックするシーンはやっぱ印象的で、そもそもゴッドファーザーとは「洗礼式に選定される代父母のことであり、その後の生涯にわたって第二の父母として人生の後見を担う立場の人(wikiより)」なので、暗殺によってコルレオーネファミリーの安全を確保するというタイトルを象徴した見事なラストなのでした。
●ヴィトーの最後
ビジュアル的に目に残るのはやはり、影を巧みに使った演出でしょうか。
マイケルが睨みを聞かせるようなシーンでは、ライティングによって表情をちょうど半分隠すことで恐ろしさを助長させていたり、ヴィトー・コルレオーネがマフィアのドンとして機能するシーンでは背景が極力闇となっており重厚感を演出していましたね。
またヴィトー襲撃シーンではオーソン・ウェルズのような見下ろしショットで転がるオレンジが記憶に鮮明に焼きつきます。
他のシーンではほとんどカメラが演技せず、被写体をグッと捉えているだけの場合が多いので、唐突な見下ろしショットはただ事ではないことを演出しているような感じがします。
フレームで僕が最も「ええな〜」と思ったシーンは、ヴィトーが畑で倒れるシーンです。
わざと空間のセオリーを無視したようなチグハグなつなぎ合わせをすることによって、ホームビデオ感を助長し、マフィアの世界とは切り離された一人の老人と孫の一間を感じることができました。
ヴィトーは恐れられているマフィアとしてではなく、愛されているおじいちゃんとして息を引き取ったのです。