はじめまして!オレンチと申します。
今回は2015年に公開されたジョージ・ミラー神による『マッドマックス』シリーズ第4弾。
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』についてお話をしていきます。
というわけで早速ですが本題へ!
目次
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のネタバレ感想・解説・考察
英雄の旅(ヒーローズ・ジャーニー)
1979年、若き映画監督ジョージ・ミラーや、バイロン・ケネディら野心に燃えるスタッフたちによって生み出された『マッドマックス』。
世界的な秩序が乱れ、暴走族による凶悪事件が多発するというディストピア近未来を描いた作品で、「オーストラリアからとんでもない作品がやってきた!」と当時のハリウッドを席巻。
当時23歳だったメル・ギブソンも、ここからスターの道を歩むこととなります。
それから『マッドマックス2』、『マッドマックス/サンダードーム』と1985年までに3作を制作し「マッドマックス:サーガ」に終止符を打ったかのように思われました。
しかし『マッドマックス/サンダードーム』から27年ぶりにシリーズ4作目となる本作『マッドマックス 怒りのデス・ロード』が封切られることに。
この作品が新たな「マッドマックス:サーガ」を紡ぐだけにとどまらず、映画史に大きな足跡を残す世紀の一作となったことは言うまでもないでしょう。
そんな『マッドマックス 怒りのデス・ロード』でジョージ・ミラー監督──、いやさジョージ・ミラー神がやりたかったことは、神話の構築だったのかなと思います。
本作がどんな話だったのか要約すると「行って、帰るお話し」とかなりコンパクトに収まりますよね。
いろんなところで「行って、帰るお話し」と表現されているので、一度は聞いたことがあるんじゃないでしょうか。
場合によっては「内容は合ってないようなもの」などと揶揄されてしまうこともありますが、侮るなかれ。
実は「行って、帰るお話し」には<英雄の旅(ヒーローズ・ジャーニー)>と呼ばれる立派な物語の類型があるのです。
<英雄の旅(ヒーローズ・ジャーニー)>とは多くの神話に共通する構造で、比較神話学の権威であるジョセフ・キャンベルの『千の顔を持つ英雄』によって広く知られるようになりました。
その歴史を遡ると、世界最古の物語とも言われている「ギルガメシュ叙事詩」まで辿り着くことができ、大きく分けて「Ⅰ.出離、Ⅱ.イニシエーション、Ⅲ.帰還」の3つに分けることができます。
それぞれ簡単に説明すると、
- Ⅰ.出離は、冒険への出発
- Ⅱ.イニシエーションは、道中の困難・障壁(通過儀礼)
- Ⅲ.帰還は、恵みをもたらす力を手に出発点に帰ってくる
といったふうになります。
ぜひ『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の流れを思い出して欲しいのですが、マックス・ロカタンスキーとフュリオサの物語に一致すると思います。
特にフュリオサが劇中を通じてどんな行動を取ったか改めて注目してみると、驚くほど<英雄の旅(ヒーローズ・ジャーニー)>の道を辿っていますよね。
ジョセフ・キャンベルは『千の顔を持つ英雄』の中で、なぜ時代も文化も違う神話の構造が、これほどまで似た形になるのか考察しており、その理由は「人間が普遍的に求める成長譚だから」だと言っています。
つまり、DNAレベルで人間が欲している物語の流れが<英雄の旅(ヒーローズ・ジャーニー)>ということなんです。
神話をモチーフにした成長譚だということがよくわかるシーンがあるのですが、砂に埋もれたマックス・ロカタンスキーがまるで生まれるかのように砂から出てくるシーンがそれです。
このシーンというのは、この後待ち受けるⅡ.イニシエーションで自身が成長していくための生まれ変わりを象徴しているように思えます。
そんな心の底から渇望する物語を、限界まで視覚と聴覚のみでも楽しめるように構成された映画だからこそ、映画史に大きな足跡を残す世紀の一作まで上り詰めたというわけですね。
というわけで次節では、視覚と聴覚で楽しめるように構成について深掘りしてみようと思います。
視覚と聴覚で感じるマッドマックス
フロイト的に言えばイド(深層心理)レベルで人間が求める物語だった『マッドマックス 怒りのデス・ロード』。
さらにジョージ・ミラー神は本作を限界まで視覚と聴覚のみで楽しめるように構成しており、これが圧倒的に多くの人から支持される理由だと思います。
セリフは極限にまで削ぎ落とされ、物語は至極シンプル。かつ劇中のほとんどのシーンがアクションと移動に時間を費やしているため、常にフィルムには動きが生まれています。
さらに全てのアクションシーンにアイディアが溢れているため、全編通して見渡す限り空と砂の景色という単調すぎる背景の中で、気づけばエンディング──という没入感を与えています。
アヴァンタイトルはマックス・ロカタンスキーの愛車・インターセプターの大クラッシュから始まり、本編が動き出すと明らかに別派閥だということがわかるヤマアラシ隊とのカーチェイス。
続いて対ウォーボーイズ戦からの砂嵐。さらにオフロードバイク族との攻防に、武器将軍とのサーチ&デストロイ。
クライマックスには棒飛び部隊のトリッキーな戦略と、人喰い男爵リムジンの大爆発──、と言うようにアクションアイディアのつるべ撃ちとなっています。
そのため同じような背景と被写体だったとしても、一度鑑賞した人なら、ショットを断片的に見ただけで今物語のどの辺りにいるのかが理解できるようになっていると思います。
さらにそのアクションに説得力をもたらすため、90%近くが実写で撮影されていると言うから驚きです。
この件に関しては百聞は一見に如かずなので、ぜひ『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のBlu-rayソフトに収録されているメイキング映像を見て欲しいのですが、例えば物語の前半でモーゾフというウォー・ボーイズがウォー・リグからヤマアラシに特攻するシーンは、爆発のショットを除けば全て実写で撮影されています。
砂漠を背景に爆走しているウォー・リグからヤマアラシにダイブするメイキング映像は目を疑うほどエクストリームな映像ですよ!
また個人的な感想かもしれないですが、ウォー・ボーイズたちの「俺を見ろ!」的なノリが、スケートボードやスノーボードなど、エクストリーム系スポーツのスピリットを強く感じています。
エクストリーム系スポーツの観戦は視覚と聴覚で楽しむものなので、ノリとしては遠からずなところをジョージ神は目指していたのではないでしょうか。
加えて爆走するマシンたちを鼓舞のように、その場を煽る劇伴は一度聞けば鮮明にシーンが甦ってきますよね。
しかも本作の劇伴は物語の外側で演奏されているのではなく、ドーフ・ワゴン(ギターステージがついているトラック)から演奏されている音が漏れているというシンクロ率なので、もはや死角なしでした。
生きているマシンたち
さてここからは劇中に登場するマシンに注目しながら、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のより細かいところまで覗き込んでみるとします。
もちろんトム・ハーディやシャーリーズ・セロンといった才能豊かな俳優陣がいるからこそ映画という媒体が成り立つことは間違い無いのです。
ですが本作においては、そんな俳優たちとほぼ同列として語っていいほど、登場するマシンたちが重要なキャラクター性を持っています。
例えばイモータン・ジョーの愛車・ギガホースはキャデラックの二段重ねとなっていて、言うなればこの世界の玉座。
フュリオサらが搭乗するウォー・リグ(ウォー・タンク)は、劇中主人公たちはほとんどこの車内で過ごすため、そのものがロケーションと言っても過言では無いくらい様々なギミックが用意されていて、まさに移動式の要塞といったところ。
マシンたちが本作において重要なキャラクターとして語られていることがよくわかるシーンがあります。
燃えたバンパーを砂で消化した後、閉じていたスーパーチャージャーの弁が開くシーンがそれで、ウォー・リグがまるで呼吸するかのように見えるはずです。
“玉座”や”要塞”というように、どのマシンも劇中では語られない文脈を持っていて、それらのマシンを実際に爆走できるよう作っているため、全てのカーチェイスシーンに生気を感じるんですね。
そんなマシンたちが100台以上も同時に爆走させながら行われた撮影はそれは凄まじいものだったことでしょう。
ポストモダン的神話の構築
作り込まれているのはマシンたちだけではなく、映画の世界観の様々な部分にバックボーンがあります。
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』はポストアポカリプスというジャンルなので、崩壊後の世界──、つまり近未来を見ているわけですが、イモータン・ジョーは崩壊前の神話を自分流にアップデートし、ウォー・ボーイズたちを操っています。
最もわかりやすいのは「ヴァルハラ」の盗用ですね。
文献のなくなった世界で、北欧神話と同じ意味合いで利用されているため、あえて盗用という表現をしています!
ヴァルハラとは北欧神話における戦死者たちが訪れる館のことで、ヴァルハラを訪れた者たちは来るべくラグナロク(終末戦争)に備えていると言われています。
一方で本作のウォー・ボーイズたちは、勇敢な戦死を遂げると向かうことができるヴァルハラ(戦死者の館)への憧れを抱き、名誉を重んじています。
他方、北欧神話におけるヴァルハラは、バイキング時代に由来するとのことなので、どちらも戦いを鼓舞する信仰だと言えます。
イモータン・ジョーは崩壊前の世界を生きていた人間なので、ヴァルハラを崩壊後の現代にうまくアップデートし神話化しているんです。
またV8サインも同様に本作の神話化を象徴しています。V8とはV型8気筒エンジンの略称で、V型エンジンの中では排気量が大きく、馬力が上がるパワフルな走り実現するそうです。
要するにめちゃくちゃパワーのあるエンジンを崇拝しているわけですね。
なぜエンジンを崇拝しているかというと、本作だけでなく『マッドマックス』シリーズにおける荒廃した世界で生き抜くためには、必需品とも言えるのが車だからですね。
そんな車へパワフルな走りを提供するV8は荒廃した世界において権力の象徴であり、崇拝の対象ということです。
過去三作(『マッドマックス』〜『マッドマックス/サンダードーム』)では限られた物資の中で生きていく人々や、その人々が暮らす文化を構築したジョージ・ミラー神でしたが、27年後の本作ではさらに一歩踏み込み、崩壊後の世界の神話として構築したのだと思います。
古の神話(北欧神話など)と崩壊後の偶像崇拝(V8)が組み合わされた神話なのでポストモダン的神話とでも呼びたいと思います。
限られた物資の中で暮らすバックボーン──、について少々補足させてください。
棒跳び部隊は、もはや発明だと思います!
初期のネイティブアメリカンたちが限られた物資の中で槍を作り狩りをしたように、ウエストランドでも限られた物資の中で編み出された狩りの方法があの、棒跳び部隊だったというわけですね。
しかも実用的な装置を開発し、実際にスタントを行っているというから驚きですよね。
フェミニズムへの先見の明
最後は『マッドマックス 怒りのデス・ロード』におけるフェミニズムについて語って終わりにしようと思います。
昨今の映画界では多様性をテーマにした様々な作品が封切られており、フェミニズムをテーマにした作品も数多く存在します。
映画というのは時代を表すものなので、このムーブメントは今まさに必要とされていることであると同時に、これまで我慢することしかできなかった人々の叫びでもあると僕は思います。
そんな中フェミニズム的映画がカンブリア爆発の如く映画界に生み出されるきっかけになったのが、僕のブログでは何度も言及しているハーヴェイ・ワインスタインによる性暴力事件の発覚です。
ハーヴェイ・ワインスタインが何をしたかについては様々なメディアでより詳しく解説しているため、細かい説明は省きますが、要するに映画界の権力者がこれまでねじ伏せてきた性暴力の実態を暴かれたことで、我慢させられていた人々が声を上げることができるようになったのです。
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は、司法を失い男たちが牛耳る社会から、虐げられ物扱いされてきた女性たちが脱出を試みる物語として見ることもできます。
そのため本作の善玉サイドはマックスとニュークスを除けば全員女性ですよね。
母乳を資源として搾り取られるシーンがありますが、男性優位社会をわざとグロテスクに描いているように感じます。
このように『マッドマックス 怒りのデス・ロード』には多くのフェミニズム的テーマが与えられているのですが、2015年公開ということで、ワインスタイン問題が発覚する2年も前に作られているんですよね。
ジョージ・ミラー神の先見の明といったところでしょうか。