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『ドクター・ストレンジ2/マルチバース・オブ・マッドネス』解説ネタバレ感想・伏線・考察|【評価】

自分自身との出会いはまず自分の影との出会いとして経験される。影とは細い小道、狭き門であり、深い泉の中に降りていく者はその苦しい隘路を避けて通るわけにはいかない。つまり自分が誰であるかを知るためには、その狭い門を通り抜けなければならない。

 

カール・グスタフ・ユング

オレンチ

はじめまして。オレンチと申します。

今回は『ドクター・ストレンジ マルチバース・オブ・マッドネス』について考察し、僕なりに本作について解説をしていこうと思います。

今回メガホンを取るのはスコット・デリクソンから『スパイダーマン』シリーズでお馴染みサム・ライミへと変更。主演は前作から引き続きベネディクト・カンバーバッチが務めています。

というわけで以下目次より早速いってみよう!

注意

この記事はネタバレを含みます。未鑑賞の方はご注意ください。

『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』のネタバレ感想・解説・考察

シンプルな構造で理解しやすい物語

『アベンジャーズ/エンドゲーム』でその片鱗を見せ、『ロキ』や『ホワット・イフ…?』ではジワジワとその概念を浸透させ、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』ではいよいよ物語に大きく関与してきたマルチバース。

ついに本作では堂々とタイトルに掲げただけでなく、マッドネスという混乱を彷彿させるタイトルになっていまいしたよね。

明らかに難解そうな作品の監督に抜擢されたのは、『スパイダーマン3部作』で有名監督の地位を確かなものにしたサム・ライミでした。

これまでMCUは──とりわけフェイズ3から──『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のジェームズ・ガン、『スパイダーマン:ホームカミング』のジョン・ワッツ、『マイティ・ソー/バトルロイヤル』のタイカ・ワイティティなど、それまで無名だったようなフィルムメーカーを監督として起用するなど、尖ったスタッフィングを繰り返し行ってきました。

そんな中で過去『ダークマン』や『スパイダーマン3部作』などマーベル映画作りの経験豊富なサム・ライミが起用された背景には、マルチバースという概念を劇場公開作に持ち込む難解さと重要度があるのではないかと思います。

とりわけサム・ライミは『スパイダーマン3部作』でMCUの総プロデューサー・ケヴィン・ファイギと組んでおり、その後のヒーロー映画の青写真を作ったと言っても過言ではないフィルムメーカー。

今後マルチバースという概念は、多くのアメコミ映画の中で物語を前に進める大きな要素となってくるはず。原作を読み漁るようなアメコミファンにとっては基礎中の基礎の様な概念らしいですが、慣れてない人にとってはSF的力が強く物語についていけなくなる危険性をはらんでいます。

蓋を開けてみれば『ドクター・ストレンジ マルチバース・オブ・マッドネス』はテーマに複雑性(マルチバースという概念)をはらみながらも、非常にシンプルな構造によって理解しやすい物語となっていました。

というのは何度もマルチバースを横断する展開でありながらも、その流れの中で行われているのは、ヒーローとヴィランの追いかけっこなんですよね。

追いかけっこ的な劇はスラップスティックな笑いを生みだしやすく、これは『XYZマーダーズ』(監督:サム・ライミ・公開:1985年)で色濃く描かれています。

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これから語られる物語の設定を観客に提示する第一幕も非常に鮮やかで、ワンダが本作のヴィランと判明し、マルチバースを行き来できる能力をもったアメリカ・チャベスを狙っていることが示されるまで、おそらくですが10分〜20分程度で描けていたかと思います。

『スパイダーマン』(監督:サム・ライミ・公開:2002年)ではピーターがクモに噛まれて能力を得るまで10分程度!とてもスピーディーで鮮やかですよね。

第一幕を効率よくスピーディーに伝えられる映画は瞬発力があり、観客の集中力を虜にする力を持っているかと思います。もちろん第二幕以降でも集中力を途切れさせない劇的な局面を用意する必要がありますが、本作は「マルチバースの移動」という劇的局面を利用し、最後まで観客の集中力を引っ張っていたのではないでしょうか。

実はコミカルなサム・ライミ作品

『死霊のはらわた』(監督:サム・ライミ、公開:1981年)で”ホラー映画の監督”と思われることの多いサム・ライミですが、実はコミカルな作劇こそサム・ライミらしさなんだと僕は思いますし、やはり本作も非常にコミカルに描かれていたと感じました。

というのもサム・ライミは大のコミックファン。アメリカンコミックはもちろんのこと、日本の漫画にも手を伸ばしているようで、過去『ゼットマン』の帯に“サム・ライミ絶賛”と表記されていたことを記憶しています。

そもそも『死霊のはらわた』でデビューで飾った背景には、ホラー映画が業界に入り込みやすく、本当にやりたかったのは『XYZマーダーズ』のようなスラップスティックコメディだったと、サム・ライミの盟友で多くの作品を一緒に手掛けてきたブルース・キャンベルが語っています。

その証拠に『死霊のはらわたⅡ』(監督:サム・ライミ、公開:1987年)では前作のセルフリメイクでありながら、コミカル味を大きくブラッシュアップ。続く『死霊のはらわたⅢ キャプテン・スーパーマーケット』(監督:サム・ライミ、公開:1993年)ではホラーの中に潜むコミカルという作劇を確立したと思います。

ともすると『ショーン・オブ・ザ・デッド』(監督:エドガー・ライト、公開:2004年)あたりから爆発的に流行り出す「ゾンビ×コメディ」ジャンルは、サム・ライミの魂が原型にあるのかもしれません。

本作『ドクター・ストレンジ マルチバース・オブ・マッドネス』も明らかにホラーの中に潜むコミカルを意識した作りになっていた気がします。音符バトルはコミカルそのものですし、最終ラウンドをゾンビストレンジへ全賭けするあたり極まってますよね。

さらにサム・ライミはズームショットを用いて、とある漫画の技法を映像で表現しています。

その技法とは「集中線」

ある一点に集中するために何本もの線を描く技法で、主に登場人物の感情を表したい時に使われる技法です。

サム・ライミはとても素早く被写体の顔へズームショットを行うことで、映画の世界にコミックの集中線を輸入していたんです。これは本作以外でもサム・ライミが繰り返し使ってきた技法で『スパイダーマン三部作』ではより顕著にみることができます。

僕の知る限りこの集中線を映像表現する作家はサム・ライミとクエンティン・タランティーノくらい。

『ジャンゴ 繋がれざる者』(監督:クエンティン・タランティーノ、公開:2012年)や『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(監督:クエンティン・タランティーノ、公開:2019年)などでも非常に鮮やかな集中線を見ることができるので、是非ご確認ください。

またサム・ライミなりの悪ふざけとも言うべきか、彼がホラー映画を作る時に大好きな描写がありまして、その大好きな描写というのが嘔吐なんです。

そんな嘔吐描写を極め、「気持ち悪さ×ホラー×コミカル」を最大限に表現した傑作が『スペル』(監督:サム・ライミ、公開:2009年)でした。

では本作ではどうだったか。

初めてDr.ストレンジがマルチバースを移動した際、しっかりと嘔吐描写がありましたよね。しかも一旦「慣れてるから吐かない」とフェイントを入れた後の嘔吐。このフェイントは「マーベルだからさすがに嘔吐はやらないっしょ」という観客へのある意味メタフィクション的メッセージのようにも見えましたね。

とはいったもののやはりマーベル作品ということで、吐しゃ物はしっかりと隠されていました。

『死霊のはらわた』感

さて、本作を語る上でやはり避けては通れないのが『死霊のはらわた』感です。

スカーレット・ウィッチとなったワンダ・マキシモフは『死霊のはらわた』における悪霊にとりつかれたヒロインそのもので、彼女を闇落ちさせたのはダークホールドと呼ばれる禁断の書でしたよね。

このダークホールドと呼ばれる書物ですが、『死霊のはらわた』における最重要アイテムであるネクロノミコンとダブらせた人も多いのではないでしょうか。

実はネクロノミコンはH・P・ラヴクラフトが生み出した架空の神話・クトゥルフ神話に登場する禁断の書なんです。

クトゥルフ神話にはタコの様な触手をもったクリーチャーが多く登場し、アース616に訪れたアメリカ・チャベスを襲っていたクリーチャーにもクトゥルフ味を感じることができます。

ともすると本作は『カラー・アウト・オブ・スペース』(監督:リチャード・スタンリー、公開:2019年)や『ダゴン』(監督:スチュアート・ゴードン、公開:2001年)、『アンダーウォーター』(監督:ウィリアム・ユーバンク、公開:2020年)などといったクトゥルフ映画の仲間とも言えるかもしれません。

そもそもマーベルの設定ではネクロノミコンはダークホールドを元に書かれた書物とされており、ダークホールドが登場した時点で『死霊のはらわた』やクトゥルフ神話と微量ながら関係性を持っていたんですね。

またカマー・タージでの攻城戦は『死霊のはらわたⅢ キャプテン・スーパーマーケット』を彷彿させていましたね。

また『死霊のはらわた』感で忘れてはならないのが、ブルース・キャンベルの存在。ブルース・キャンべルは『死霊のはらわた』の主人公アッシュを演じたサム・ライミの親友で、ライミのヒーロー映画には必ずカメオ出演という形で登場します。

もちろん本作でもチーズボールの街頭販売を行っている販売員という形で登場。過去カメオ出演してきたブルース史上で最も彼の良さを活かした、そして『死霊のはらわた』感を出したキャラクターとして登場しました。

彼はDr.ストレンジに魔法をかけられ、自分の右腕と格闘することになってしまいますが、これは『死霊のはらわたⅡ』で行われた局面と全く同じ。そもそも『死霊のはらわたⅡ』はミッドポイント(物語の丁度半分くらい)までブルース・キャンベルの一人芸の様な映画で、『死霊のはらわたⅢ キャプテン・スーパーマーケット』でも同じように自分と戦っていました。

要するにブルース・キャンベルは自分と戦わせると、とても面白い役者なんです。

本作のテーマは人間の二面性

続いて本作のテーマの一つにもなっていた二面性について言及していこうと思います。

まず第一に、いよいよドラマ作品を観ていないと監督の意図した表現を感じ取ることが出来ないところまでMCU作品は来てしまったのだな。という印象を受けました。

というのもワンダが闇落ちしてしまった葛藤や、ライトサイドに戻るラストの演出など『ワンダヴィジョン』のなかで彼女が味わった強烈なトラウマを観ているか否かで、伝わり方には雲泥の差があると思います。

もちろん『ワンダヴィジョン』を観ている人にとっては、ワンダが闇落ちしてしまった気持ちも、ライトサイドにもどる気持ちも痛いほどよく分かるかと思います。とりわけ親としてのフィルターがかかった目で観ると、ワンダの心の変化はより濃厚に伝わりますよね。

これは1人2役──いや、ともすると1人2役よりも難しい、キャラクターの二面性を演じ切ったエリザベス・オルセンに拍手ですね。

思えば本作『ドクター・ストレンジ マルチバース・オブ・マッドネス』に人物の二面性、もしくは多面性というテーマがありました。

Dr.ストレンジもワンダ・マキシモフもマルチバースを旅する中で、いつも自分自身と戦っていましたよね。

人は誰しも二面性を持っており、自分自身の二面性と向き合うことでよりよい自分を作り上げていくことが大切と分析したのが心理学者のカール・グスタフ・ユングです。

本作にはそんなユングの心理学的なテーマも隠れているのかもしれませんね。

そもそもこれまで絶対的なヒーローだった人物(ワンダ・マキシモフ)をメインヴィランとして扱うなんて、なかなか型破りなことをしていますよね。このような作劇と、その作劇によって観客に芽生える様々な感情は10年以上続いているシリーズならではのもので、そこには十人十色の感情が芽生えているはず。

今回みたいな観客への揺さぶりができるのはMCUくらいのもので、MCUにしかできないことをしっかりと実行するあたり、さすがMCUと言わざるを得ない一作でした。

最後になりますが、ストレンジが別宇宙のクリスティーンにかけた「どの宇宙でも愛している」というセリフが最高でした。

正直ストレンジとクリスティーンが行動を共にしている間、二人の間に見え隠れするロマンスにあまり共感することができなかったのです。

しかしストレンジがかけたあのセリフは、クリスティーンという人物を超えた、何か概念的なものへ向けた不動の愛を現したもので、この世界観でできる最大限の愛情表現だったように思えます。何とも粋なセリフでストレンジとクリスティーンのロマンスを締めくくってくれたと思います。

ひょっとしたらこの感動は『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー Vol.3』におけるスター・ロードとガモーラの関係にも波及するものなのかもしれません。

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