オレンチ
はじめまして!オレンチと申します!
今回は『マトリックス レザレクションズ』について書いて行こうと思います。
メガホンを取るの前三部作から引き続きラナ・ウォシャウスキー。
さらに前三部作から引き続いてキアヌ・リーヴスやキャリー=アン・モスらが出演しています。
というわけで以下目次より行ってみよう!
この記事はネタバレを含みます。未鑑賞の方はご注意ください。
目次
『マトリックス レザレクションズ』のネタバレ感想・解説・考察
『マトリックス』シリーズと聖書
1999年に公開されるやいなや「驚異の映像革命」と呼ばれ、映画界に多大な影響を与えた『マトリックス』(99)。2003年には続編の『マトリックス リローデッド』と『マトリックス レボリューションズ』が公開されSFジャンルに大きな足跡を残したトリロジーとなりました。
思えば1994年の『ジュラシック・パーク』を筆頭に、20世紀末は爆発的に映像革命が起きた《映像の産業革命》とでも呼ぶべき時期でした。
オレンチ
《映像の産業革命》が足枷となり、皮肉にも本作に悪影響を与えてしまっている箇所もある気がします。その点については後述します。
そんな流れ──1作目から約20年の時を経て復活を遂げた『マトリックス レザレクションズ』。
[レザレクション]とはキリスト教におけるイエス・キリストの復活を指す言葉です。『マトリックス』シリーズは聖書から多く引用された物語としても有名ですよね。例えば[トリニティ]はキリスト教における最も重要な教義の一つ[三位一体]を表していたり、人類最後の都市ザイオンは聖地エルサレムのことを指し、モーフィアスらが乗るネブカドネザル号は旧約聖書においてエルサレム(ザイオン)を解放したともいえるネブカドネザル二世から引用されています。
さらにネオのマトリックス世界での名前、トーマス・アンダーソンにも聖書を彷彿させる言葉遊びが隠されています。
まずファーストネームのトーマスは。使徒の一人でキリスト復活に懐疑的だったトマスを彷彿させます。1作目の『マトリックス』でネオは自分が救世主であることに懐疑的でしたよね。
またファミリーネームのアンダーソンは、神の子という意味が含まれており、直接イエス・キリストを表現しています。
つまり『マトリックス』シリーズにおけるネオは、聖書における救世主イエス・キリストだったんですね。
もうお分かりかと思いますが、イエス・キリストの復活としての[レザレクション]はすでに一作目の『マトリックス』で描かれているんですよね。
一度エージェント・スミスに殺害されたネオでしたが、蘇ることによって救世主としての力を手に入れていました。あれはまさに聖書におけるレザレクションだったわけです。
ではなぜ今『マトリックス』は『マトリックス レザレクションズ』として復活を遂げたのか。そこには本シリーズの神とも言えるラナ・ウォシャウスキーの、現代に相応しいメッセージが隠されていました。
二元論からの解放
本作の企画発案から辿るとその道は決して整った道ではなかったことがわかります。
そもそもワーナーにシリーズ4作目を打診されたウォシャウスキー姉妹は、当初『マトリックス レボリューションズ』の後の物語を描くつもりは全くないと発言していたことからもよくわかります。
前三部作を「ゲーム」という劇中劇とし、シリーズ最新作をワーナーに作らされているという状況を自虐ネタのように語られてもいましたよね。
しかし物語が進んでいくと、本作でラナ・ウォシャウスキーが語りたかったテーマが次第に浮き彫りになっていきました。
本作テーマというのは「二元論からの解放」と言えると思います。
本作では様々な二元論が登場します。青いピルと赤いピル、0と1、ネオとスミス、etc。
新たなマトリックスの中でトーマス・アンダーソンが開発中のゲーム「バイナリー」も0と1から表現されるデータ形式「バイナリ」がモチーフになっています。
またこの「バイナリー」は、ジェンダーバイナリーを彷彿させているように思えてなりません。
ジェンダーバイナリーとは性別二元論のことで「世の中には男性と女性しかいない」という考え方のことを言います。
ご存知の方も多いと思いますが、監督のラナ・ウォシャウスキーは性転換手術を受けたトランス女性です。ラナがどうだったかここではわかりませんが、ジェンダー・バイナリー的な考え方に苦しめられている人は大勢いて、ラナもそのことは間違いなく理解しているはず。
だからこそ、本人から見た自分と他者から見た自分は、必ずしも一致しないという表現がされており、『マトリックス』をレザレクションさせることで「二元論からの解放」を図ったのではないでしょうか。
「二元論からの解放」を思うと、トリニティが現実世界へ引き戻される方法が非常に興味深く思えてきます。
これまでマトリックスから現実世界へ引き戻す方法は「青いピルを飲むかと赤いピルを飲むか」という二元論的選択でしかありませんでした。
しかしトリニティの場合、ピルを使うことなく非常に複雑な方法で現実世界へ引き戻されますよね。
つまり自分のアイデンティティを証明するのに2つの選択肢だけに限らないということだと思います。
性別も同じように非常に複雑なもので、ジェンダーバイナリーのように二元論的な考え方もう古い時代に突入しようとしています。
たとえばバイオロジカル──、つまり生物学的に性を見たとしても簡単に二分できるようなものではありません。例えばインターセックスと呼ばれる両性具有者の方も世の中にはいます。
だからこそLGBTQ+を表現するプライド・フラッグはレインボーなんですよね。
またトリニティがアナリストによって「ティファニー」を演じさせられているという描き方から、凝り固まったジェンダー規範への警鐘とも読み取ることができますね。
オレンチ
夫役が『ジョン・ウィック』シリーズの監督チャド・スタエルスキだったのに遊び心を感じますね!劇中の名前もチャドだし。
本作では「二元論からの解放」──、さらに深読みするとジェンダー問題と真摯に向き合った作品だと言えそうです。
ただかなり象徴的に描かれているため、伝わりづらい感は否めないと思います。
もしかしたら数年後に再評価されてくるような作品なのかもしれません。
ちなみにアナリスト役のニール・パトリック・ハリスも男性パートナーと子育てを勤しんでいるゲイ男性として知られています。
当ブログでは繰り返し紹介していますが、ジェンダーについてより深く理解したい人はアイリス・ゴッドリーブ著『イラストで学ぶジェンダーのはなし』がおすすめです。
ユピテルとイオ
過去作から引き続き、本作においても聖書は神話から多くの言葉を引用している点も印象的でした。
例えばザイオンから新しく移った都市アイオ。
字幕では「アイオ」と訳されていましたが、これをスペルに直すとIOなんですよね。つまり日本語読み的には「イオ」が正しい気がします。
発音的にはアイオに近いので間違いやすいんですよね。以前NETFLIXで見た『ユピテルとイオ』という作品の中で感じたリスニングの違和感がなければ今回気づけていなかったと思います。
オレンチ
NETFLIX映画『ユピテルとイオ』ではイオという字幕に対し、役者はアイオと発音しているように聞こえるんです。
本作においても、イオとはギリシャ神話における「ユピテルとイオ」から取ったものと考えられます。
「ユピテルとイオ」は、オウィディウスの『変身物語』として語られるゼウス(ユピテル)の恋とイオの受難の物語として知られています。
ゼウス関係を持ったことからゼウスの妻ヘラから恨みを買ってしまったイオは、牝牛に変身させられたまま世界中を放浪して苦しんだのち、辿り着いたエジプトで許され、本来の姿に戻ることができたとされています。
オレンチ
『変身物語』というテーマがジェンダー問題ともマッチしているように見えますね。
イオはヘラに見つからないようにゼウスが黒雲で隠していたことも本作における新都市アイオ(イオ)と関連性が見て取れます。
またエジプト神話におけるイオは豊穣の女神イシスとして崇拝されており、新都市アイオ(イオ)でイチゴが作られていることにも納得ができます。
また「ユピテルとイオ」の物語にはクジャクの羽の模様の由来となったエピソードもあり、本作に登場したクジャクとの関係も見えてきますね。
もし次作があるのなら、ユピテルも登場するのかな。なんて思ったりしています。
ちなみにイオは木星の衛星にも同じ名前が付けられており、ウォシャウスキー姉妹の作品『ジュピター』も遠からず連想させますよね。
このように前述したトマス・アンダーソンという名前や、バイナリーなどラナ・ウォシャウスキーの脚本にはインテリジェンスなダブル・ミーニングが見て取れます。(イオとジュピターのダブル・ミーニングは少々こじつけですが)
ダブル・ミーニングといえば、「モーダル」というプログラムに侵入した新船長バックスにもダブル・ミーニングがあります。
劇中バックスの名前の由来はバックス・バニーのバックスと語られていましたね。これは一作目『マトリックス』のオマージュ的演出であり、主人公がうさぎを追うことによって不思議の世界に迷い込むという『不思議の国のアリス』を連想させる暗喩表現です。
オレンチ
本作では露骨に『不思議の国のアリス』の書籍が映るカットがあり、暗喩と呼ぶには無理がありますが・・。
また『不思議の国のアリス』の書籍が映るカットでは隣に『鏡の国のアリス』の書籍も置いてありました。
『鏡の国のアリス』は『不思議の国のアリス』の続編で、1作目と反復関係にある本作では『鏡の国のアリス』にちなみ、マトリックスと現実の行き来に鏡が使われていましたね。
少し話がずれましたが、バックスは「モーダル」というプログラムに侵入しそこでモーフィアスを救出しますよね。しかしトーマス・アンダーソンにはプログラムの不具合に見えていました。
プログラミングの不具合を起こすのはバグです。
つまりバックスにはバグという意味も含まれていたんですね。ラナ・ウォシャウスキーの言葉遊びに頭の良さを感じる脚本でした。
ちなみにバックスを演じるジェシカ・ヘンウィックは最近気になっている俳優さんの一人です。
『ゲーム・オブ・スローンズ』のナイメリア役で初めて認知した方なのですが、NETFLIXで配信された『ラブ&モンスターズ』とのギャップで心を奪われてしまいました。
本作では『マトリックス』シリーズの持ち味の一つであるサイバーパンク味を全身で表現し、魅力あふれるキャラクターに仕上がっていたと思います。
ちなみにサイバーパンクについて詳しく知りたい方は、ラジオ番組『アフターシックスジャンクション』の『サイバーパンク特集』がおすすめです。
貴種流離譚としての『マトリックス レザレクションズ』
さて『マトリックス レザレクションズ』という作品を構造レベルで抽出すると「貴種流離譚」という説話の類型が見えてきます。
「貴種流離譚」を簡単に説明すると、苦しめられている人々を救う能力(権力だったりパワーだったり)を持っている人物が、故郷から離れて放浪したのち、正しき人物に導かれて英雄として故郷に戻ってくる物語のことです。
例えば『ロード・オブ・ザ・リング』三部作のアラゴルンは貴種流離譚の典型ですし、『スターウォーズ』も同じ説話構造になっています。
アニメとしては『ライオンキング』がわかりやすいですね。
また近年では『バーフ・バリ』二部作も貴種流離譚ですね。
古くは日本の神話『ヤマトタケル』も同じく貴種流離譚にカテゴライズできます。
もちろん一作目の『マトリックス』も貴種流離譚でした。
一作目と反復している『マトリックス レザレクションズ』もやはり貴種流離譚なのですが、面白いのは貴種流離譚が二重構造になっている点です。
一作目と同じくネオを英雄として導く物語と思いきや、今回はさらにトリニティも英雄へと導く物語でした。
結局先に飛ぶ力を手に入れたのはトリニティの方で、本作における真の英雄はトリニティということなのかもしれません。
ちなみに貴種流離譚については三宅隆太監督によるポットキャスト『スクリプトドクターのサクゲキRADIO』でより詳しく語れていますのでぜひ参考にしてください。
新バレットタイムについて
最後に本作でアナリストの必殺技として解き放たれた、「新バレットタイム」について軽く触れて終わりにしようかと思います。
「バレットタイム」とは一作目『マトリックス』から生まれたと言える造語で、被写体が静止しているもしくはスローモーションな状態でカメラアングルが移動する映像のことを言います。
本作で登場した「新バレットタイム」はアナリスト以外の人物がスローモーションで動き、アナリストのみ普通のスピード(視聴者から見て)で動けているという映像でした。
撮影法に詳しいわけではないので、確かなことは言えませんがおそらくこの「新バレットタイム」も革新的な方法で撮影しているはずです。
しかし斬新に感じられないのはなぜなのか。それは先述した《映像の産業革命》の爆発的CG技術の発展ににより、視聴者の目が肥すぎてしまったことが元凶にあると思います。
今となってはどんな映像でも「CGで説明できる脳」になってしまっているので、今一度「映像」について見つめ直す必要がある気もします。
おそらく「新バレットタイム」は従来のCGとは違う手法で撮影されているはずです。
しかしそれをキャラクターにあえた語らせることで暗に示さなくてはならない点が、なんとも悲しいところだなと感じました。
ただし「新バレットタイム」に新しい技術が使われていると仮定すると、まだ使われるのが早かったのかなという気もします。
というのは明らかに「新バレットタイム」時のフレームレートが変なんですよね。急に8ミリフィルムの映像になったような、一昔前のスローモーション映像をみているような、機材の不調を感じる危険性も孕んだ映像かなとも感じてしまいました。
まとめ
というわけでここまで『マトリックス レザレクションズ』について個人的に解説・考察をしてきました。
ぶっちゃけワーナーを弄った自虐ネタのくだりは退屈でしたし、先のアクションシーンでも何度かあくびをしてしまった自分がいるので、手放しで褒められた作品出ないことは確かかなと思います。
しかし深く考察していくとテーマは明確かつ時代にフィットしたものですし、脚本の言葉遊びは秀逸です。
いずれまた再評価されることを願ってやみません。