オレンチ
はじめまして!オレンチと申します!
今回は2002年に公開されたサム・ライミ版『スパイダーマン』について書いて行こうと思います。
メガホンを取るのは前述の通り『ドクター・ストレンジ イン・ザ・マルチバース・オブ・マッドネス(原題)』の監督にも抜擢されたサム・ライミ。
主演は本作で日本での知名度を爆上げしたトビー・マクガイアです。
『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』に向けた予習的な鑑賞なのでサクッとレビューしてみます。
というわけで以下目次より行ってみよう!
この記事はネタバレを含みます。未鑑賞の方はご注意ください。
『スパイダーマン』のネタバレ感想・解説・考察
アメコミ映画史の起爆剤となった作品
2021年現在、アメコミ映画が1作も公開されないという年は無くなりましたよね。
本記事で扱う「アメコミ映画」という文言はほとんどの場合、実写化されたものを対象としています。
劇場に足を運べば「NowPlaying」や「ComingSoon」という見出しを掲げたアメコミ映画のポスターを見ることができます。
そんな映画の興行を支えているといっても良いアメコミ映画ですが、ここ20年ほどで爆発的な成長を遂げたサブジャンルなんです。
そして成長の起爆剤となったのが本作『スパイダーマン』です。
そこですこしアメコミ映画における映画史を振り返ってみましょう。サクッと調べた感触では映画史で最初に実写映画化されたのは1966年の『バットマン』だったようです。
同作はTVシリーズの後日談として制作されたもので、第1シーズンの2ヶ月後に劇場で公開されました。
その後1978年にリチャード・ドナー監督が『スーパーマン』(78)を実写化し、80年代にはティム・バートンが『バットマン』(88)を実写化しています。
90年代になるとマーベルの経営不振もあってか、ネームバリューの高いアメコミ映画は『バットマン』しか制作されませんでした。
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90年代ギリギリに、かろうじてマーベル原作の『ブレイド』(98)が作られてはいます。
上記の流れを追ってみるとお気づきかもしれませんが、アメコミ映画史の初期は、ほとんどDCコミックス原作による作品で溢れていたんですよね。
しかし2000年代になると風向きが大きく変わることになります。
ブライアン・シンガー監督の『X-MEN』(00)が大ヒットを記録し、この流れに乗ったのが『スパイダーマン』(02)というわけです。
『X-MEN』と『スパイダーマン』のオープニングを比較すると非常によく似ているのがわかると思います。
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この流れは『ハルク』(03)まで続きます。
それではなぜ『スパイダーマン』がアメコミ映画史における起爆剤となったのか、細かく考察してみようと思います。
鮮やかにオリジンを描いたアメコミ映画
サム・ライミ版『スパイダーマン』最大の功績は、鮮やかにヒーローのオリジンを描いたことです。
オリジンとは”原点”を指す言葉。ヒーロー映画におけるオリジンとは、狭義として「力を手に入れたこと」であり、広義では「主人公の心情がヒーローへと成長したこと」を指すことだと言えると思います。
本作の物語を俯瞰してみると、狭義としても広義としてもヒーローのオリジンを描けていますよね。
「力を手に入れること」とはスーパースパイダーに噛まれてスーパーパワーを手に入れることであり、「主人公の心情がヒーローへと成長したこと」とは「大いなる力には大いなる責任を伴う」というベン・パーカーの言葉の意味を理解したこと。と言えそうです。
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「大いなる力には…」はアメコミ史上最大の名言だと思います。
このように「何者でもない市井の人が(なんならうだつの上がらない)スーパーパワーを手に入れ、その力に思い上がりつつも、何かのキッカケで悟りを開く」という展開は、視聴者にとって《希望》や《共感》を生むのだと思います。
驚くべきことに『スパイダーマン』は「力を手に入れること」までをおよそ10分程度で描いており、ストーリーの転がし方は見事と言わざるを得ません。
本作以降のアメコミ映画はほぼ同じような展開で、『デアデビル』『ハルク』『ゴーストライダー』『パニッシャー』『ファンタスティック・フォー[超能力ユニット]』などは、すくなくとも「力を手に入れること」のオリジンをキチンと描くようになっています。
さらにはDCの『バットマン』でさえ『バットマン・ビギンズ』としてオリジンを描くようになり、その流れは『マン・オブ・スティール』へと継承されていきます。
ちなみにリチャード・ドナーの『スーパーマン』は本作と同じように丹精にオリジンを描いていたので、『スパイダーマン』が初めてやったことというわけではありません。
むしろサム・ライミはリチャード・ドナーの『スーパーマン』から多大な影響を受けているのかもしれないですね。
さらに本作『スパイダーマン』が鮮やかなのは、ヴィランのオリジンも同時に描いている点です。
スパイダーマンのオリジンを描くのと同時に、本作のヴィランであるグリーン・ゴブリンのオリジンも妥協することなく描けていたと思います。
というわけで次の章からは、ヴィランについて考察を広げてみようと思います。
ヴィランも大切に描く
サム・ライミという監督は、ヒーローは当然ながらヴィランも非常に大切に扱っている監督だと思います。
先述したヴィランのオリジンもそう思える一つの要素ですが、もう一つそう感じさせるのは一重にヴィランの出番の多さにあります。
ただ出演時間を多くするのではなく、ヒーローの葛藤と同じようにヴィランの行動原理を描いているんです。
どんなヴィランにも必ず行動原理というものが存在します。逆に行動原理のないヴィランはどんなに見た目が良かろうと、どんなに能力が高かろうとつまらないし、魅力はありません。
本作のグリーン・ゴブリンの場合は自分の研究や功績を認めてもらえない他者への怒りや憎しみですよね。
ノーマン・オズボーンが開発した増強薬の副作用でその怒りは抑えられなくなりある種、乖離性同一障害のような多重人格を生み出してしまっていました。
さらに本作ではヴィランとヒーローをより魅力的に魅せる作劇が行われています。
というのはヒーローとヴィラン──、つまりスパイダーマンとグリーン・ゴブリンが劇中でラウンドマッチを繰り広げているんです。
本作でスパイダーマンとグリーン・ゴブリンは時間と場所を変え、何度も戦闘を繰り広げていますよね。
このおかげで満足度は大きなものになるし、両者は表裏一体のような一体感を感じさせることに成功しています。
その後『インクレディブル・ハルク』ではあえて台詞としてラウンドを意識させていましたね。
ヒーローとヴィランのラウンドマッチをこれ以上ないくらい精錬させたのが、クリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』(08)でした。
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ジョーカーを演じたヒース・レジャーの功績もでかいですよね。
俳優の功績といえば、本作におけるウィレム・デフォーの功績は多大なものがあると思います。
一度見たら忘れないアクの強い顔は言わずもがなですが、非常に「上手いな!」と思わせるシーンがありました。
そのシーンというのは、初めて自分の中に巣食っているグリーン・ゴブリンの存在に気づいたときです。
このシーンは鏡に映る自分と会話することで、グリーン・ゴブリンの存在を視聴者に伝えるシーンですが、導入部はワンカットでとっていることに驚きました。
普通このように多重人格を描くシーンで鏡を使うのは常套手段なのですが、多くの場合カット割をします。
鏡を用いるため被写体となる役者はカットが割られるたびに左右が逆になり、まるでイマジナリーラインを跨いだような編集によって多重人格を視覚的に表すのですが、本作の導入部ではそれをしていないんですよ。
イマジナリーライン跨ぎ同一人物の左右が逆になることで別人のように見せることができます。
ではどうしているかと言うと、ウィレム・デフォーが瞬時に人格をスイッチさせる演技をしているんですよ。それをワンカットで見せるというこの上なく技術の高い演技だと思います。
凶暴化する副作用
最後はグリーン・ゴブリンが誕生する元凶となった凶暴化する副作用を持った増強薬について考察してみます。
というのもこの手のキャラ性はよく用いられる手法で、例えば『ハルク』も同じような性質を持っていると思います。
しかしその元ネタを辿ってみると、あくまでも個人の見解ですが『ジキル博士とハイド氏』があるのかなと思います。
『ジキル博士とハイド氏』はジキル博士が開発した薬品によって、性格や容姿まで変貌してしまったもう一人の人格を生み出してしまい、次第に凶暴な人格に飲み込まれていってしまうジキル博士の様を描いた小説で、1886年にロバート・ルイス・スティーヴンソンによって生み出されました。
さらに、おそらく『ジキル博士とハイド氏』に影響を受けたと思われる有名な古典小説がH・G・ウェルズの『透明人間』です。
『透明人間』も透明になる薬の副作用として、性格が凶暴になってしまうがありました。
またジキル博士とハイド氏は『リーグ・オブ・レジェンド』や『ヴァン・ヘルシング』でもみることができます。
しかしこれらに登場するハイド氏はいずれも筋骨隆々の怪物として描かれていましたよね。しかしロバート・ルイス・スティーヴンソンの小説『ジキル博士とハイド氏』でハイド氏は、むしろジキル博士よりも痩せこけた人物として描かれています。
筋骨隆々の怪物として描かれた背景には、視覚的な分かりやすさを求めた結果だと言われています。
というのも『ジキル博士とハイド氏』の最初の実写化は舞台であり、演出として分かりやすさを求めた結果、筋骨隆々の怪物として描かれるようになりました。
その流れは継承され、近年の映画でみるハイド氏やハルクのようになっていたのだと思われます。
最後はちょっと余談でしたが、グリーン・ゴブリンの始祖を考察したくらいで本レビューを終幕したいと思います。